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料理本のソムリエ [ vo.6 ]

【 vol.6 】
牛鍋と牛丼、二つのチェーン

 前回に引き続き、築地つながりの話題です。
牛丼の吉野家(ヨシの字は土に口と書くほうなのですが、ここではご勘弁を…)の1 号店は築地市場内にあります。もっとも明治32(1899)年の創業地は日本橋の魚河岸でして、市場が移ったのに合せて築地に移転しました。となると、築地市場が豊洲に移ったあかつきは、今度もまたお供するのでしょうか…。
 材料が牛肉なのに、なぜ魚河岸に縁が深いのか。それは牛丼が今も昔も「早い」「安い」が喜ばれた商品だったからです。魚河岸には、商品を運び、仕分けし、競り場に並べる「軽子」(かるこ)と呼ばれる作業員たちがたくさんおりました。彼らが仕事の合間に、土足で立ったままでも食べられるような手軽な食事が牛丼だったわけです。

gyudon.jpg 明治40年代の職業案内書を見ると、牛丼屋は「牛飯屋」「牛肉煮込屋」などと呼ばれておりまして、屋台でも営業できるし、小資本で参入できて利益率も高いと紹介されております。材料は切り出し肉や内臓。その昔は犬や馬の肉を混ぜた不届き者もあったとありますが…。
 この牛肉煮込とちょっと混同されやすいのが牛鍋でして、両者は単価が違います。こちらは文明開化の寵児として明治の初めごろにブームを呼んだ業態でして、牛丼よりはずっと高級です。

 牛鍋の話といえば必ず登場するのが別名「いろは大王」こと、木村荘平。彼こそは日本の外食チェーンの始祖であります。創業は明治11(1878)年。材料は一括で仕入れ、営業成績の載った社内日報を発行するなど、近代的な手法で牛鍋店の経営を行ない、店名の“いろは”にちなんで48店の展開を目指しました。ただし彼は、フランチャイズチェーン(FC)ではなく、自分の妹たちやお妾さんに店を持たすという究極の方法で、家族経営とチェーンの両立を図ったのが現代人にはまねできないところ。酉の日には全従業員とその家族をぞろぞろ連れて参詣し、店の存在をPRしました。なお料理を運ぶ店の女中さんは「軽子」と呼ばれていたそうです。
 荘平は何人お妾さんを持つつもりだったのかはわかりませんが、子供たちには生まれた順に数字で名前を割り振りました。なんだか昔の中国みたいですが、30人もいるとなると、そうしないと覚えきれなかったのかもしれません。いろはチェーンはカリスマ創業者が亡くなると傾き始め、大正元年(1912)年には倒産してしまいますが、木村家の遺伝子は優秀で、奇術師の荘七、画家の荘八、作家の荘十、映画監督の荘十二など、多くの文化人を輩出しております。

 エビスビールの大日本麦酒醸造会社を興し、競馬場を始め、現在の日本の火葬場の基礎を作るなど、とにかく型破りな経営者だった木村荘平については『悲願千人斬の女』が詳しいです。表題の由来となった松の門三艸子、芦原将軍、稲垣足穂、そして木村荘平と、破天荒な人生を送った4人の人物を取り上げた至極まじめな本なのですが、タイトルにインパクトを狙いすぎて損をしているように思えます。いろはチェーンの店は何店あったのか、いい加減な憶測がまかりとおっていたのですが、本書では19店中15店の住所まで調べ上げており、正確を期そうという執筆姿勢には頭が下がります。

 さて、話を吉野家に戻しましょう。こちらにも木村荘平にも負けないカリスマ社長、松田瑞穂がおりました。明治時代から素人でも参入しやすい業態としてみられていた牛丼屋ですが、1968年に吉野家が新橋に初めて支店を開いたその時から、今のようなチェーン店隆盛時代が始まります。

松田氏はアメリカ式のセントラルキッチンやFCをいち早く導入し、10年後には目標の200店を早々と達成。アメリカにも進出し、さらに300店舗の目標を掲げてチェーンの拡大を目指します。しかしその急拡大が災いして資金繰りがショートし、115億円の負債を抱えて1980年に会社更生法の適用を申請、倒産の憂き目にあいます。
 絶好調だった吉野家がつまづいたのは、味の低下に原因があったと分析されています。具体的には粉末ダレや冷凍漬物、フリーズドライの牛肉の導入であり、それが顧客離れを招いたのです。これだけみると、素材の質を落として利益を上げようとした安直な姿勢のつけが回ったかのように見えますが、その狙いは別のところにありました。粉末ダレは店ごとに味がぶれるのを押さえるためと輸送コスト削減、冷凍漬物は白菜の値段の季節変動を回避すること、フリーズドライの加工牛肉は当時あった牛肉輸入制限枠にとらわれずに輸入できることから導入に踏み切ったのです。しかし、それにともなう味の低下を軽視すぎた。策士策におぼれたり、という感じです。

taidan.jpg 吉野家の松田社長はたいへんなアイデアマンでした。当時の吉野家では、米においても画期的な技術を導入しています。
というのも、小社の「月刊食堂」のバックナンバーを見ていたら、1974年8月号の社長インタビューで松田氏は「空気洗米の導入」をアピールしていたのです。圧縮空気を吹き付けてヌカを落としたこの米は日持ちがよく(当時はいったん研いでから乾燥させた米が業務用として出回っていたのですが、水分を含むので日持ちが悪かったのです)、アルバイトでも簡単に炊けると彼は強調していました。これって今でいう無洗米と狙いは同じではないか。しかし米と米をこすりあわせて研ぐ、まったく水を使わない無洗米が登場したのは90年代からです。空気でヌカはどの程度まで落とせたのか、どこの精米機メーカーが開発し、どうして普及しなかったのか、今となっては謎です。

 ほかにも松田社長は3億円を投じて、各チェーン店の売り上げを本部や自宅のコンピュータのモニタでチェックするシステムを導入しています。70年代のパソコン(おっと当時はマイコン、もちろんBASICですね)といえばマニアの手製がお決まりで、静電気で部品を壊さないように台所でアースしながら組み立てていた時代ですから、そのハイテクぶりたるや恐るべしです。松田社長のニーズに技術が追いついていなかった。悲劇の経営者というしかありません。

 1987年に債務を100%返却して奇跡の復活を遂げた吉野家は、その後も話題に事欠きませんでした。吉野家を取り上げたビジネス書には、デフレ時代の象徴として注目したものとしては『新国民食吉野家!』(01年)『吉野家の牛丼280円革命』(02年)が、BSE禍の影響を受け、牛丼販売中止がニュースになった頃には『吉野家』『がんばれ!!吉野家』(06年)『吉野家安部修仁 逆境の経営学』(07年)が出版されています。しかし、これらの本は発行年が下がるにつれ、倒産はプロジェクトX的な感動エピソードの一つとして語られがちな気がします。

yoshinoyasaiken.jpg ところが会社更生終結の翌年に小社から出版された『ドキュメント吉野家再建』を読むと、そんな簡単なものではありません。動揺する社内の建て直しと団結、ノウハウ流出による分離独立店の防止、債権者との駆け引き、FCオーナーの説得など、きれいごとだけでは済まない企業の苦悩までもが描かれています。企業の危機とその克服の実例として、興味深い。
そもそもビジネス書は成功例と自慢話に満ちているものですが、失敗を正面きってとらえた本はなかなか珍しい存在でもあります。経営者たちは、戦国武将の格言を覚えたり、女子マネージャーに甲子園に連れていってもらうひまがあったら、こういった先人の苦労から学びとってほしいものです。

 吉野家が再建できたのは、原点に立ち返って味の向上をめざし、再建セールを打つことで再び吉野家ファンの支持を集めたことが大きかった。この成功以降、吉野家はあくまでも牛丼を商品の柱とする単品主義を守るとともに、全店一斉フェアでのてこ入れを重視するようになります。

 7月28日、また吉野家は安売りフェアに踏み切り、松屋やゼンショーもこれを迎え撃ちます。一般マスコミは牛丼戦争などと面白おかしく取り上げるばかり。安売りフェアも乱発するようになると、単なる消耗戦にすぎなくなります。どうせなら歩調を揃えて、「3チェーン合同企画による牛丼安売りゴールデン週間」とでもしたほうが(3店食べ歩くと何かもらえるとか)、牛丼ファンを増やす楽しいイベントになる気がするのですが…。もっと外食産業全体の活性化につながるような、建設的な方向には持ってこれないものでしょうか。



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2010年07月23日 17:08に投稿されたエントリーのページです。

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