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料理本のソムリエ [ vo.7 ]

【 vol.7 】
ジャパン・クール“DONBURI”

 前回は牛丼のお話をしましたが、この丼=ドンブリは、あだやおろそかには扱えない、日本の誇る偉大な発明であります。アメリカの吉野家はBEEF BOWLと称しているらしいですが、カタカナで書くと肉だんごみたい。
ここはぜひ、DONBURIをワールドワイドにしていただきたいですね。

donburi_1.jpg というのも、ドンブリという器にはご飯とおかずを一緒に盛る、すなわち一人前を一つの器で簡単にサービスできます。江戸時代に発明されたワンプレートランチであり、料理提供スタイルの革新だったのです。鰻丼、天丼、カツ丼、親子丼、深川丼等々、庶民的なメニューが生まれるにはドンブリが欠かせませんでした。同じような用途の器にお重があり、こちらのほうが歴史が古いのですが、鰻重、天重、カツ重となるとちょっと高級なイメージです。何度も塗り重ねて作る漆器は大きくなればなるほど、製作の手間が増えて高価になるせいでしょうか。漆器には「鰻椀」という大型の平椀もあるのですが、最近はとんとみかけません。

 なおドンブリは日本独自の食文化ですから、中国には天津丼も中華丼も存在しません。これらは日本生まれの中国料理です。伝統的な中国陶磁を見ていると「鉢」や「碟」「海碗」といった似た形の器はあっても、丼と呼ぶのにぴったりなものがなかなかありません。とくに牛丼を盛るときに使うような深くて背の高いもの(下の写真の左端のタイプ)は見当たりません。浅くて口の開いたラーメン用のドンブリと比べても、中国の鉢はもっと腰に丸みがあります(右から2番目のタイプが近いかんじです)。大きさもドンブリよりは大きめです。
 取り分けるのが基本の中国料理の場合、鉢には料理を人数分盛り付けるわけですから、口が大きく開いていて丸みがあってたっぷり盛れるほうがよい。一人前が基本の日本のドンブリとは設計思想が違うわけです。
「丼」という漢字は「鰹」のような日本人が作り出した国字ではありませんが、もともと「ドンブリ」という意味はなく、日本であとから器の意味が付け加えられました。本来は「井」の篆書体でして(井上さんや石井さんの実印には丼の字が彫られているはずです)、中国でも使われなくなった古い字です。中国の人が「牛丼」という看板をみてもなんのことやらわからない(もっとも最近は「丼」という字ともども、中国でも認知が高まっているようですが)のは、こうした理由からです。

donburi_2.jpg

 このようにドンブリは日本独自のものなのですが、謎だらけ。まず、なぜ丼という漢字が当てられたのかがわからない。俗に井戸の中にドンブリを投げ込んだ様子を表しており(「井」の中に「ヽ」=ドンブリが入っているように見えるというわけです)、その時の水音が「ドンブリ…」と聞こえたので、この器の名前を「ドンブリ」というとか…。もっともらしい説明ですが、井戸の中に器を投げ込んで、どうやって回収するつもりなのか。そもそも何のために放り込むのか。ちょっと理由がわかりません。

 水音説に説得力がないとなると、語源もわからなくなります。「どん」+「ぶり」という発音はどこかしら怪しい感じで日本語っぽくありません。そのため、「湯鉢」(スープの鉢)と書いて朝鮮語で「タンバル」と発音する器が日本に入ってきて、なまってドンブリになったという説もあります。これは戦前の朝鮮陶磁研究家、浅川巧が『朝鮮陶磁名考』で言い出したもので、講談社現代新書の『食文化の中の日本と朝鮮』にも採用されている比較的有名な説です。
 しかしこれも根拠が弱い。まず朝鮮陶磁でドンブリに相当する形の食器が、中国同様ポピュラーではない。なにせ朝鮮は、料理は金属の器に盛る文化なのですから。それに戦国時代に朝鮮の陶工と一緒にドンブリが伝わったのならわかりますが、朝鮮との国交が制限されていた江戸時代も後半になってから、なぜ突然朝鮮の呼び名が普及することになったのかがわからない。そもそも中国陶磁や李朝陶磁において「湯鉢」という器形を聞いたことがない。浅川氏は「朝鮮の蕎麦屋、一膳めしやで使われている器」が湯鉢と呼ばれていると紹介しているのですが、これって逆に日本から輸入されたのではないかという疑問がわきます。巧は兄の伯教ともども朝鮮陶磁の研究で有名ですが、朝鮮にぞっこんの彼の主張はややもすれば牽強付会なところがあります。

 現在有力なのは「けんどんや」という外食業態にちなむという説です。漢字で「慳貪屋」と書きまして、慳貪とは、つっけんどんなこと。サービスはそっけなく、一人前を盛りきりで提供し(お代わりのない一膳めし屋です)、現金掛値なし。こうした飲食店で使う器が「けんどん振り」と呼ばれ、縮んでドンブリになったというのです。
 しかし、これもどうもストンと腹に落ちない。そもそも愛想のない「けんどんや」という外食産業の実態が今一つ不明なのです。けんどんやにヒントを得て始まったのが、けんどんそば。その配達用の箱が「けんどん箱」で、これが蕎麦を運ぶ「岡持ち」へと進化するのですが、のちに装飾の立派な「大名けんどん」という箱も現われます。これでは豪華なんだか、そっけないんだか、言葉として矛盾しております。
 実際に江戸時代の段階で、何のことかわからなくなる始末でして、「けんどん争い」なるディベートすら行なわれています。論争の主は南総里見八犬伝の著者である滝沢馬琴と、雑学考証の大家である山崎美成。彼らは自慢のお宝グッズ(この時代ですから骨董書画や考古遺物など)を披露し合う「耽奇会」というサークルを開いていたのですが、文政8年(1825年)そこで出品された「大名けんどん」の由来について手紙で大激論を交わします。『新燕石十種2巻』の「けんどん争ひ」や『兎園小説別集』(日本随筆大成第二期4巻)の「けんどん名義」によると、美成はけんどんやにちなむと主張するのに対し、馬琴はけんどんとは本箱に似た型の麺類を運ぶ道具のことであると主張。(つまり馬琴の時代になると、大名けんどんもけんどんやも何のことかよくわからなくなっているのです)泥沼化した挙句、言葉尻をつかんだ言い合いになり、絶交してしまいます。ネットの論争を見ているようでちょっと不毛な印象です。

 とまあ、けんどんがよくわからない以上、ドンブリという器の名称の由来もよくわからないのですが、そもそもドンブリがいつ生まれ、どのように普及したかという研究が、これまた乏しいのです。
 私の知る限り、ドンブリ史をまとめた唯一無二の研究は、寺島孝一先生の『アスファルトの下の江戸』「どんぶりと割箸」の章です。寺島先生は、東大埋蔵文化研究所で江戸遺跡の発掘に従事していたため、この本では文献だけを眺めていると見落としがちな江戸の人々の日常や道具に光を当てています。たとえば屋根の材質や硯、めんこなどで、考古遺物を通じて江戸の食生活について考える章もあります。「どんぶりと…」の章ではドンブリという単語が出てくる文献を探すとともに、当時のドンブリが、現代人が思い浮かべるそれと同じものかどうかを絵画資料から探っていきます。

 さて、ここからは寺島先生の受け売り。丼という語は元禄時代(1688 ‐ 1703年)に書かれた『男重宝記(重宝記資料集成 第11巻所収)』(これは当時の男性向けハウツー本です)にも出てきますが、意識して使われるようになったのは天明年間(1781 ‐ 1789年)だそうです。例の滝沢馬琴の兄の羅文が「近世丼という器出て、あまねくもてはやされる」と記録しております。羅文によると、大きさは10cm未満から30cmを越えるものまでいろいろ、底が細くて口が広く、饅頭を盛ったり、鰹の三杯酢を盛ったりと大活躍していたとのこと。朝鮮語の「湯鉢」を語源とするのに無理があるのが、ここからわかりますね。ちなみにドンブリにご飯が盛られるようになったのは、鰻丼が先駆けだったようです。文化年間(1804 ‐ 1817年)に鰻好きの芝居のパトロンが、観劇中に冷めないようにドンブリに鰻とご飯を入れて蓋をして取り寄せたのが始まりだそうです。

sobanojiten.jpg 小社の『蕎麦の事典』には、例の「けんどんや」や「けんどん箱」についても説明がありますが、都合のいいことに表紙に江戸時代の丼を描いた浮世絵が載っております。「花街模様薊色縫」という歌舞伎の1シーンで、屋台の二八蕎麦屋でかけ蕎麦(麺が太くてうどんみたいに見えるのはご愛嬌)を食べているのですが、六角形の小鉢のような形で今のドンブリとはかなり違います。ところが絵師の三代豊國が同じ画題で描く別バージョンの浮世絵もありまして、こちらは今のドンブリに近い釣鐘型。江戸時代の人の中でドンブリのイメージはいまだ固まっていなかったのでしょう。それが次第に使いやすいように、今の形へと進化していったと思われます。

 ところでこの浮世絵は、日本料理史上のもう一つの大革命を示しています。それはもり蕎麦から、かけ蕎麦への進化。後世のラーメンへとつながる汁そば文化の誕生です。これについてはまた後日に。




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2010年08月10日 11:48に投稿されたエントリーのページです。

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