【 vol.9 】
江戸時代の蕎麦マニアたち
さて、いよいよドンブリの話の続きです。
かけそばの誕生のいきさつは1751年に書かれた『蕎麦全書』という本に出ております。この本は、当時の特色あるそば店を列挙したり、蕎麦や薬味の製法を解説したりと、全書という名に恥じない詳しさで、江戸時代のそばに関する薀蓄を語るときには欠かせない種本です。以下は下巻の「ぶっかけそば始りの事」から。
「新材木町に信濃屋と云ふ有り。是元祖也。其本は省略のため製し始めし也。尤も粗々たる一小家なり。此辺、車力、軽子多く集り会する場処なり。此ぶっ懸そばを製し出せしは、立ちながらも食するの便りにしたり」
新材木町は今の堀留町あたりで、日本橋の魚河岸にも近い。ここの信濃屋という小さな店が元祖だそうです。築地の回で説明した軽子や車力たちが、作業着のまま立食いするのに便利なように始めたもので、当時は下品な食べ方とされていました。しかし猪口や汁注ぎなどの付属品を必要としないので簡便なうえに、寒い時期には温かくして出すこともでき、広まったというのです。
なお前々回に取り上げた「けんどん争い」の最中で滝沢馬琴は「そば切の器物は、予が小児の頃は皿也。今は多くは平をも用ひ、小蒸籠又丼鉢をも用れど…」と述べております。馬琴は蕎麦全書完成よりもあとの1767年生まれ。この頃のそばは皿盛りだったということは、まだまだ、もりが中心だったのでしょう。それが馬琴と山崎美成とが大喧嘩した1825年には、平椀や丼も使われるようになった。つまり、かけそばが普及していったということを示しています。
かけそばを丼で提供するとなると、麺も汁もたっぷりの量が必要です。ひいては、明治時代以降に普及した支那そばも、日本人向けにスープたっぷりに仕立てるのが通常スタイルとなりました。一方中国はというと、前々回述べたようにドンブリという器はありませんから、この地で食べられる麺類は、タレで和えた和え麺であったり、汁と一緒に食べたとしても小椀に盛るものでした。最近ではタンタンメンは汁なしが本格的だという事実が広く知られるようになりましたが、それもそのはず、汁たっぷりのタンタンメンやラーメンは日本独自のものです。ちなみにタンタンメンは屋台風に担いで売り歩いたから「担々麺」でありまして、「坦々麺」と書くのは誤りです。もっとも日本式のものにはこの字をあてると決めれば、うまく呼び分けることができるかもしれません。
さて話を戻して蕎麦全書ですが、これは出版販売された本ではなく、手書きの原稿として伝わったもので、戦前はごく一部の人たちにしか存在を知られていませんでした。それを聞きつけ、広く紹介したのが故・新島繁氏です。『蕎麦うどん名著選集第1巻』と『食の風俗民俗名著集成第4巻』に収録されていますが、文語体のままなので、藤村和夫氏がさらに現代語に訳して解説をつけた『現代語訳「蕎麦全書」伝』が便利です。
「さらしな総本店」の店主でもあった新島氏は、蕎麦の歴史の研究に熱心で、同人雑誌「さらしなそば」を発行するほか、「日本麺食史研究所」を立ち上げて資料の蒐集に努めました。その蔵書はそばに直接かかわる資料はもちろん、民俗学や江戸文学などまで目配りした、日本一のそばコレクションです。
世にあまたある江戸関係書をながめると、寿司に比べてそばの歴史に関する薀蓄がやたら充実しているのは、新島氏が世のそば好きたちを結集し、資料を積極的に紹介し、考証してきたからにほかなりません。新島氏の著作には、「さらしなそば」への寄稿を集めた『蕎麦今昔集』や『蕎麦の世界』のような編著のほか、江戸時代のそば文献を紹介する『近世蕎麦随筆集成』、『蕎麦史考』、そして新島氏が校正作業後に急逝され、最後の著作となった『蕎麦年代記』などの専著があります。どれも文献にきちんとあたった学術的な内容で、箱入りの重厚感ある本です。
いっぽう気軽に読めるものとしては、編著の『蕎麦の事典』や、そばに関わる年中行事や地方のそば民俗を紹介して中公文庫にも収録された『そば歳時記』あたりがよいでしょう。
蕎麦の世界を見渡すと、新島氏のほかにも研究熱心な業界人が多いですね。たとえば浮世絵蒐集では、『そばの浮世絵』を出版した「風流田舎そば」の故・山本重太郎氏や、小社から『そばの歴史を旅する』を出版した「増音」の故・鈴木啓之氏の名が挙がります。
蕎麦全書の著者である日新舎友蕎子(にっしんしゃゆうきょうし)と名乗る人物も、店で食べるそばには満足せず、自らそばを打つと書いておりますが、こちらは同業者ではなく、当時のそばマニアと思われます。
ちなみに江戸時代のそば好きは友蕎子さんだけではなかったようです。蕎麦全書には仲間の「谷村氏」が、「平岡氏」とどちらがそばをたくさん食べられるか競争したエピソードが載っております。○○氏という呼び方から察するに、彼らは武士階級だったのではないでしょうか。二人の勝負の行方はというと、両名とも大重箱に盛った1升以上の量のそばをなんなくクリア。さらにお代わりを椀で出し続けたところ、どちらも21杯食べてみせた。さらに平岡氏はそらまめご飯を2杯たいらげてみせたとのことです。大食がたたってか、のちに平岡氏は亡くなりますが、谷村氏は70歳になんなんとしても起居壮健、以前のようにそばを食べたとか。
また友蕎子は、そば好きの親友2人(名前は不明)と連れ立って、量がやたらと多い日本橋馬喰町(新材木町の近くです)の蕎麦屋をわざわざ訪ねたりもしています。「そばを好みて馬喰町そば試ざるも遺念也。格物の一つ也」(そば好きとしては馬喰町のそばを食べたことがないというのも心残りだ。これは物事の理を究めるためである)というのが、動機です。“遺念”だの朱子学用語の“格物”だのと仰々しくて言い訳がましいのが、これまた武士っぽい。「どうだい、ちまたで話題のメガ盛りそばを食べに行こうじゃないか」というのが真相でしょう。
さて、うどん粉どころかヒエが入っているという噂すらあるこの店に、まずいのを承知のうえで入った友蕎子ら3名。直径30cmほどの大鉢に崩れんばかりに盛ったそばに、3人前が一つに盛ってあるのかと勘違いします。煮干しを使ったその汁はなまぐさく、胸につかえてなかなか食べられない。「いかもの食い」の友だち(もしかしたら谷村氏かもしれません)が1人前と半分を食べて手伝ってくれたものの、友蕎子ともう1人はギブアップ。少し残して店を出ようとしたら、お代わりをしているお客を見てさらに驚いたり……。のちのちまで話の種となったことでしょう。『蕎麦全書』のさまざまなそばに関わる情報は、こうした仲間との交流の中で集まったものかもしれません。
このように江戸時代にも確かにそばマニアと呼ばれる人たちがいたと思われます。蕎麦全書にはそば好きで、いろいろ工夫し、道具まで自分で作ってそばをふるまう凝り性の「土田氏」なる人物が出て参ります。しかし土田氏は、出来不出来があって満足いくそばが打てないことに気を病み、そば打ちを止めてせっかくの道具を譲ってしまいます。
また小社刊の「そばうどん」38号には江戸の各種料理書に出てくるそば汁の作り方について、千葉大名誉教授の松下幸子先生が紹介しておりますが、その1つ『黒白精味集』に「平尾正斎」と「横田甚左衛門殿」のそば打ち方法が登場します。この写本が書かれたのは『蕎麦全書』の5年前。著者である江戸川散人こと孤松庵(コショウにかけた筆名でしょうか)は、友蕎子グループと面識はなかったのでしょうか…。ちなみにさすがの新島氏も、『黒白精味集』には調査は及んでおりません。そば研究はまだまだ奥が深いのです。
プロである新島氏も、マニアの友蕎子も、自分でそばを打つために、そばに対する理解と思い入れが深いのが単なる食べ歩き好きとは違うところ。それでいて、自分が打つそばに自信はあっても、それ以外は認めないというような姿勢はありません。とにかくそばが大好きで、そばに関することなら何でも知ろうとし、それを後世まで伝えようとしてくれたのに感謝です。
平成の時代にもそば打ち自慢のマニアたちがたくさんいるようですが、批評家然として天狗になっている者も見られます。正直、愛が足りませんぞ。
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