【 vol.10 】
カフェ、はじめました
また丼の話の続きです。実は、第7回の文章にひとつだけ気がかりな点がありました。一度に料理を提供できる簡便さをアピールしたいが余り、丼を江戸時代の「ワンプレートランチ」とたとえましたが、今でもこの言葉って有効なのか。「ワンプレートランチって、ちょー受けるんですけどぉー」とか失笑されていないか。
意を決して斯界の権威、『café sweets』編集長に問い合わせたところ、特に珍しいことでもないので最近はあまり使われていないそうです。恐る恐る最新号を開いてみたところ、色とりどりの野菜のランチはたくさん並んでいるけれども、確かに「ワンプレートランチ」なるキャプションは見当たらない。「カフェごはん」もすっかり世の中に定着し、もはや取り立てて言上げすることでもなくなったのですね。年齢はとりたくないものです。
ちなみに柴田書店の看板雑誌『café sweets』が創刊したのは2001年3月。スターバックスの日本上陸が1998年でして、ちょうどこの頃からカフェというスタイルの店が爆発的に増えたと記憶しております。小社刊の『カフェをはじめてみませんか?』は第1章の「ケーススタディ」で、8店のカフェの開業までの経緯と苦労を紹介しておりますが、ほとんどが2000年前後の開業。ただし、もっとも古株のNews Caféのオープンは95年であります。オーナーの伊原佳代子さんは、90年代初めに東京にアメリカンスタイルのカフェができつつあり、カフェ開業を決意した95年には表参道にオープンエアのカフェが目立ち始めていたと、当時を述懐されています。
この店は「カフェ・デ・プレ」表参道店のことでしょう。レストランひらまつグループの「カフェ・デ・プレ」は東京のオープンエアのカフェの嚆矢でして、1号店が広尾に開店したのは93年10月。見通しのよいガラスの扉で外と店を仕切る開放的な造りで、店名をプリントしたオーニングテントのひさしの下、道路に面したテラス席が並ぶ…。こうしたフランスらしい造作のカフェの登場は実に画期的でした。渋谷のBUNKAMURAには89年にフランスの「ドゥマゴ」の支店がオープンしておりますが、こちらはビル内での営業だったのに対し、デ・プレはまさに街角のカフェそのもの。
月刊専門料理93年12月号で平松宏之シェフは「10代でフランスに憧れ始めた時から自分の中に蓄積してきた“フランス”を、レストランを通して、ビストロを通して、カフェを通してそれぞれに表現していくのが夢だった」とそのコンセプトを明確に語っています。
実は「カフェ・デ・プレ」よりも2年前、開業間もない原宿のフランス料理店「ル・カーナヴァル」を取材したことがあるのですが、ここもまた外見がフランスのカフェそっくり。外の空気を感じることのできるテラス席を設け、パリの街角を演出するのが中嶋芳男シェフのこだわりでした。たまたまこの店が建物の地階に位置し、公道ではなく吹き抜けの中庭に向けて開かれた構造なので実現できたそうです。というのも当時は保健所が、開放的な造りの店に対して難を示していたのです(レストランを開店する際に、店舗設計が完成した段階で、衛生上の問題がないか保健所の指導を受ける必要があります)。カフェ・デ・プレも営業当初に保健所から、店の外までテーブルをせり出さないように、と厳しく指導されたとも聞いています。
原宿と広尾では保健所の所管が違いますので確かなことは言えませんが、いまや日本でもテラス席を当たり前のように見かけるようになったのは、こうしたシェフたちの熱意の積み重ねのおかげではないでしょうか。それは、なんとなく洒落ているからまねしてやろう、という軽い気持ちではなく、フランスの文化とエスプリを日本に紹介しようという強い意志があったからこそだと思うのです。
そもそもトルコに端を発したカフェというスタイルの飲食店はドイツ、イタリア、イギリス、フランスと欧州を席巻、それぞれに独自の発展を遂げます。単なる食事の場所にとどまらず、文学者や評論家が意見を戦わせ、新進の画家が集い、芸人が腕を磨く、文化を生み出す装置でありました。そうした欧州のカフェを論じる本は彼の地でも多く出版されており、翻訳も出ております。めまぐるしく登場する多くの人物にパリやロンドンのカフェを語らせる『カフェの文化史』は、文字がびっしりでエスプレッソをマグカップで読むような読後感。一方『ヨーロッパのカフェ文化』は、1章ごとに異なる国のカフェ文化が紹介され、アメリカンコーヒーのようにさらりと読めます。お好みに合せてどうぞ。
さらに突っ込んで知りたい方は各国論がお勧めです。『ウィーンのカフェ』はドイツ、『コーヒー・ハウス』はイギリス、『カフェ ユニークな文化の場所』はフランスを取り上げておりまして、それぞれの国柄に応じて、カフェがどのように受け入れられ、発達したのかをわかりやすく概観しています。
またフランスのカフェを支える人々については『パリ物語 グルメの都市をつくった人々』がスポットをあて(中公文庫にはずばり『パリのカフェをつくった人々』のタイトルで収録されています)、フランスの地方出身者とパリとの関係を解き明かしてくれます。たとえばパリのカフェのスタッフはオーベルニュ出身者が多いのはなぜか。放牧とチーズ作りが主産業のこの地からパリへ出稼ぎにきた若者たちが、水売りなどの重労働に従事し、のちには炭屋を開きます。その店の一角で珈琲や酒を飲ませるようになったのが後にカフェへと姿を変えていったそうです。
またブラッスリーのオーナーはアルザス人が多い。そもそもブラッスリーとはビール醸造所の意味で、ドイツ国境に接するアルザスで生まれた“ビールを飲ませる食堂”ですから、これは当然といえば当然のこと。ところがブラッスリーの屋台でカキの殻をむくエカイエという職業は、サヴォワ人が多いそうです。サヴォワは海どころかスイスに近い山国なのですが、舗道に面したふきっさらしの屋台で水仕事ができるのは、寒さに強いサヴォワ人だからこそ、なんだとか。
ちょっとできすぎた話と思われるかもしれませんが、ここ日本にも同様の事例があります。厳寒の冬の海で海苔を摘み取る作業は、江戸時代から農閑期に出稼ぎにきた諏訪の人たちがたずさわってきました。その伝統をうけて海苔の収穫が機械化されたのちも、海苔の入札の際に格付け検査をする検査員は長野県の出身者が多かったそうです。長年海苔に触れてきたプロだから、海苔を見極める力もすぐれているというわけ。詳しくは海苔業者からの聞き語りである『山国からやってきた海苔商人』をご覧下さい。
おっと話が横道にそれました。実はパリのカフェという業態が日本に紹介されたのは、これが初めてではありません。明治の末、日本の文化人たちはあこがれのパリにあるような「文学カフェ」を求めました。それに応えて画家の松山省三が明治44(1911)年に銀座に開いた「カフェー・プランタン」がその始まりといわれています。
大正モダンの時代にブレイクした日本の「カフェー」(カッフェー、カフェエなどとも表記されています)はパリのカフェと違って、ギャルソンではなく女給さんたちが給仕し、彼女たちは時代の最先端を進む働く女性としてもてはやされました。
しかし昭和に入って不況を迎えるとカフェーは次第に姿を変えていきます。大阪資本の女給の「エロサービス」(!)を売り物にした店が東京に進出し、大流行。当時のことですから、このキャッチフレーズから想像されるほど過激なものではなく、キャバクラみたいな感じです。店の女給さんを紅白2チームに分けて競わせたり、トップの女給さんが有名になったりしたところもよく似ています。
ですから今でも日本の法律上、カフェー(今のカフェのことではありませんよ)は風俗営業の「2号営業」に分類されています。このカテゴリーに含まれるのはほかに「料理店」と「待合」でして、キャバクラも該当します。料理店が風俗営業というのはかなり違和感がありますが、これは飲食以外に遊興も提供する店を指す狭い定義でして、早い話が芸者さんを呼んだり、お酌してもらえる料亭さんのことですね(「待合」は同じく芸者さんを呼べる店ですが、料理を自前で作らずに、仕出しで済ませる業態をいいます)。純粋に料理だけを提供する板前割烹などは「飲食店」というカテゴリーに入りまして、風営法の規制は受けません。逆に2号営業の対象であれば、住宅地への出店が規制される場合がありますし、公安委員会に届けねばなりません。
こうしてみるとテラス席を備えた東京のカフェの流行は、明治の末の初心に帰るルネサンス運動とも言えます。通りに面したテラスに知った顔を見つけて、ふらりと立ち寄り、しばし語らい会う…。ネットカフェの時代ですから、そうした交流はもはや電脳の世界だけなのかもしれませんが。