【 vol.12 】
五色の酒とレコードコンサート
しつこいようですが、まだまだカフェーの話が続きますよ。
前に説明したプランタンが明治44(1911)年4月、パウリスタが12月開業ですが、そのちょうど間の8月に開業したのが精養軒経営の「カフェー・ライオン」です。都市の女性の勤め先といえば電話の交換手か洋品店の店員か、といった時代ですから、女学校出の才女たちがこぞってこの店の女給さんとなり、人気を集めました。ところが震災の後に斜め向かいにライバル店が出店。獅子と虎の対決と噂されます。この店こそが永井荷風が通った「カフェー・タイガー」でして、こちらは昭和のカフェーブームを牽引する有名店となります(ここのナンバーワンが魯山人の器を使ったことで知られる「おけい寿司」を開くお慶さんです)。一方ライオンは昭和6(1931)年に大日本麦酒に経営に代わり、ビアホールとなりました。その地で今も営業を続けるのが「銀座ライオン5丁目店」というわけです。
プランタン、パウリスタ、ライオンは大正時代のカフェーの三羽烏ですが、それに一歩先駆ける先輩格として必ず語られるのが「メイゾン鴻ノ巣」です(表記は一定しておらず、鴻之巣、鴻乃巣とも書きます)。なにしろ前回紹介した『珈琲飲みある記』によると、松山省三がプランタンを開いた動機は鴻ノ巣のコーヒーのうまさにあったそうですから。
ただし、この店をはたしてカフェーとして紹介していいものか、ちょっと迷います。詩人の木下杢太郎によると主人はキャバレーやカフェーといわれるのは嫌っていたとのことですし、久保田万太郎は料理3品にパンと果物、コーヒーがついて50銭だったと語っておりますし。当初日本橋小網町の鎧橋のたもとに店を構えていたこともあって、その立地がセーヌ川の左岸にあった本場パリのカフェを連想させ、フランス文化にあこがれた文学青年たちが通ったようです。木原店、京橋と二度の移転を経た後はさらに本格的なフランス料理店となりまして、多くの文化人の集まりに使われました。たとえば芥川龍之介は『羅生門』の出版記念パーティを鴻ノ巣で行なっており、その際に店の主人に「本是山中人」と揮毫したことが知られております。
鴻ノ巣はコーヒー史を扱う本だけでなく、カクテル史の文脈の中でも登場します。なにしろ日本バーテンダー協会会長の長谷川幸保氏が銀座に開いたバーの名前は、この店にあやかってか、「鴻の巣」(後に鴻之巣と改称。現在は閉店)でありました。
鴻ノ巣ではパンチやカクテルが名物で、中でも「五色の酒」で知られていました。これは色違いのリキュールを混ざらないようにそおっと注いで層状にしたもの。ステアしたり、シェイクしたりして作るカクテルと対極にあります。なお大正浪漫ただよう「五色の酒」とは日本での呼び名でして「プース・カフェ」というのがオリジナル名称。フランス語でコーヒーを押しやるもの、という意味です。つまるところ食後酒ですね。
はたしてどんなレシピなのでしょう。幸い小社はカクテル関連の本はたくさん出版しており、資料には事欠きませんぞ。
『新版バーテンダーズマニュアル』ではグレナデンシロップ、メロンリキュール、バイオレット、ホワイトペパーミント、ブルーキュラソー、ブランデーを6分の1ずつ。これでは6色の酒ですが、7色使った「レインボー」という仲間もあります。逆に『バー・ラジオのカクテルブック』ではカルア、クレーム・ド・バイオレット、ペパーミント、ブルーキュラソーを4分の1ずつの4色。『カクテルレシピ1380』はグレナデン・シロップ、マラスキーノ、クレーム・ド・ミント、クレーム・ド・バイオレット、イエローシャルトリューズ、ブランデーを6分の1ずつ。なおこの本には「プース・カフェ・アメリカン」というカクテルのレシピもありまして、こちらはマラスキーノ、オレンジキュラソー、グリーンシャルトリューズ、アニゼット、ブランデーで作るのですが、仕上げにブランデーに火をつけます。『カクテルホントのうんちく話』によると、プース・カフェはナポレオン時代に流行ったシャス・カフェに端を発し、19世紀半ば過ぎにはいろいろな種類が生まれたそうで、最後にブランデーを浮かべるのが暗黙の了解だったとか。
要は比重の重い順に注いで層にすればよいわけで、瓶から直接注がずにバースプーンで静かに移すのがこつ。かつてかなり流行したようで、リキュールグラスよりも細い「プース・カフェグラス」という専用グラスすらありました。カフェー・プランタンでも提供しておりまして、松山省三の息子である河原崎國太郎は自伝『女形芸談』中で、実家のバーテンダーが作る五色の酒を心をときめかせて見ていたと子供時代の思い出を語っています。
さて鴻ノ巣名物五色の酒ですが、これは日本文学史上、有名な事件のきっかけとなります。前回も登場しました平塚らいてう主宰の女性雑誌『青鞜』がその舞台です。明治45(1912)年6月。まだ10代だった青鞜社員の尾竹紅吉が、単身鴻ノ巣に雑誌広告を取りに行きました折に、主人に五色の酒を飲ませてもらいます。鴻ノ巣は『奇蹟』『ザムボワ』『スバル』など各種文芸雑誌に広告を入れておりまして(スバルにはプランタンの開店あいさつと並んで広告が入っております)、文学界のよきパトロンでもあったのです。
紅吉が青いストローで虹のような酒を飲む(実際は彼女は飲まなかったらしいのですが、背伸びしたい年頃だったようで)感動を誌上に寄せると、青鞜の活動を疎ましく思っていた保守派の格好の攻撃材料に。同時期に紅吉たちが吉原を見学した「吉原登楼事件」と合せて「女だてらに白昼堂々と酒を飲む」「女文士の吉原遊び」と揶揄し、面白おかしく新聞ネタにされてしまいます。責任を感じて青鞜を辞めた彼女は、のちに陶芸家の富本憲吉の妻となります。
ちなみに大正7(1918)年に出版された『料理小説集』の著者である吉田静代は、紅吉に興味をもって青鞜の支援会員となり、大正2(1913)年10月にメイゾン鴻ノ巣で開かれた仲間の上京歓迎会に出席しております。彼女の自伝『ひとつの流れ』によりますと、歓迎会では騒動の発端になった五色の酒も飲んだとか。くだらぬ新聞中傷などに負けないぞ、という意思表示だったのでしょうか。
この『料理小説集』は小説中の料理が登場するシーンをピックアップし、その料理のレシピを紹介したもの。今でも雑誌などで人気の企画の元祖ですね。もっとも彼女自身も青鞜に作品を発表しているくらいですから、選ぶ小説が実に渋い。吉田静代は料理研究家の宇野弥太郎の原稿(恐らく「西洋料理法大全」)をまとめたり、宇野が料理長を務めた料亭の帳場を手伝ったこともあり、まさに適任者でした。料理小説集は1995年に復刻されたのですが、小規模出版で入手は困難です。もっとも97年には構成を変え、年譜を省略した編集版が『折々の料理』のタイトルで再び世に出されております(こちらはなぜか表紙に魯山人の器の写真が使われております)。
ところでメイゾン鴻ノ巣が料飲文化に貢献したのはカクテルだけではありません。ロシアからサモワールを輸入して、知り合いに送っていることが与謝野寛・晶子夫妻宛の手紙から判明しています。また鴻ノ巣は支店として、京橋ですっぽん料理店「○や(まるや)」を始めておりまして、若き日の魯山人が料理を指導したというエピソードが白崎秀雄の『北大路魯山人』に出て参ります。
下岡蓮杖ばりにアクティブで、軟派な文士とも硬派なフェミニストたちとも分け隔てなく付き合う鴻巣主人。彼はいったい何者なのか。その謎は『祖父駒蔵とメイゾン鴻之巣』で、明らかにされております。本書はタイトルの文のほか、著者の奧田万里氏の日常をスケッチしたエッセイなど22編を集めた書で料理本ではありませんが、魯山人が彫ったメイゾン鴻ノ巣の看板がわかる貴重な外観写真を見ることができます。
なお、駒蔵は若い頃にすっぽん料理店で修業したと語っていたとか。新聞広告を調べてみると「○や」の開業は美食倶楽部どころか、魯山人の骨董店「大雅堂」の開業よりも先ですし、その開業以前からメイゾン鴻ノ巣では毎週金曜日にすっぽん料理を提供しています。となると魯山人が指導したというのは、かなり割り引いて考えたほうがよさそうです。むしろ逆なのかもしれませんぞ。
今や忘れられた奧田駒蔵(なにしろ白崎の本には奧田慶太郎という誤った名前で登場します)の事蹟について、10月に開かれた「食生活史懇話会」では、奧田万里氏と音楽史研究者の奧田恵二氏のご夫妻に講演していただきました。その席では鴻ノ巣で開かれた蓄音機コンサートの曲も披露されたのですが、これまたバッハやシューベルトといった古典ではなく、ストラヴィンスキーやリヒャルト・シュトラウスなど当時最新の音楽だったとのことです。音楽愛好家にとっては、同時代の希少な音源を最新オーディオ機材で聞けるめったにない機会。かつてのジャズ喫茶のような役目を果たしたのでしょう。
それにしても駒蔵のマルチタレントぶりと交際範囲の広さには驚かされます。関根正二ら若い洋画家の作品を買って彼らの活動を支えただけでなく、みずからも文人風の絵をよくして個展を開き、店で発行した雑誌の表紙も自分で描いております。東京の蒲田には自分で設計したアトリエを建て、御茶ノ水の文化学院の創立メンバーとしてフランス料理を教え、学校の表札も彼の字でした。映画の「寒椿」(南野陽子主演ではありませんよ。水谷八重子のデビュー作。青鞜社員だった林千歳も登場します)に、モブキャラクターとして出演したという伝承もあります。震災後の復興の無理がたたって若くして亡くならなければ、後世にもっと名を残したことでしょう。