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料理本のソムリエ [ vo.11 ]

【 vol.11 】
2軒の日本最初の喫茶店

 HPにアップされた前回の文章を通して読み返したところ、慄然といたしました。これでは「いまどきのカフェには暗いくせに、キャバクラについては営業許可についてまで詳しいおっさん」と思われかねない…。違いますからね。知っているのはカフェーのほうです。その証拠に今回も引き続きカフェーの本の話を。

 日本のカフェーの第1号は、「カフェー・プランタン」であることは前回述べましたが、これは「カフェーと名乗った最初の店」という意味でして、「日本最初の喫茶店」となるとちょっと様子が違います。これはなかなか厄介な問題でして、明治の新聞や広告ビラにより、当時コーヒーを提供していた店がいくつか確認されておりますが、どれくらいの期間営業していたか、どんな業態だったかわからないものばかり。

 たとえば明治9(1876)年4月7日付けの東京絵入新聞に、画家にして写真家の下岡蓮杖が浅草の奥山に「御安見所(またの名を油絵茶屋もしくはコーヒー茶屋)」を開いたという記事が載っております。偉人の肖像画や函館戦争、台湾出兵のパノラマ絵を飾り、入場料は1銭5厘でもれなくコーヒーつきという趣向。これは当時珍しかった油絵の見世物小屋でして、喫茶店のプロトタイプというにはちょっと無理がありますね。なお、この記事中にはコーヒーとはいかなる飲み物なのか、一切説明がありません。喫茶店はまだ存在しなくとも、当時急速に増えていた西洋料理店ではコーヒーも提供しており、認知が進んでいたのでしょうか。
 ちなみに『下岡蓮杖写真集』の解説によると彼はかなりのアイデアマンだがやや大風呂敷の気がありまして、パノラマ絵に石版印刷、乗合い馬車に人力車、牛乳販売にガス灯設置を日本で初めて手がけたのは自分だと語っていたそうです。この写真集は料理本ではありませんが、蕎麦を食べる女性たち(せいろで1人2枚ずつです)や、桶にのせたまな板で魚をおろす女性、天秤棒を担いだ豆腐売りや魚売り、金沢八景の料亭「千代本」といった明治初期に写された貴重な写真が掲載されておりまして、食文化的にもちょっと興味深いです。それからついでにトリビアですが、「星岡茶寮」の共同経営者だった中村竹四郎は下岡の最後の弟子であります。

 それでは開業日時が確認できるうえ、明らかに欧州のカフェーを目指していた店はどこかというと、明治21(1888)年4月13日に上野の西黒門町に開店した「可否茶館」です。オーナーの名前は鄭永慶。彼は江戸時代の初めに日本に亡命した鄭成功の末裔でして、中国語通訳として幕府に仕えた家系のために中国風の名乗りですが、れっきとした日本人です。
 可否茶館については版画家にして明治文化研究家の奥山儀八郎氏が再評価し、1940年には可否茶館が開業時に発行した小冊子をわざわざ復刻しております。この小冊子は可否茶館の開業広告のほか、世界のカフェ事情を紹介したもの。この復刻版を入手した内田百けん(黒澤明の映画「まあだだよ」の主人公ですね)が、明治製菓別館の喫茶室でいにしえの可否茶館に思いをはせる小文が『御馳走帖』に収録されています。御馳走帖は言わずとしれた料理エッセイの名作の1つですね。過去に書いた料理関係の文を集めて、戦後間もない1946年9月に発行した本で、活字にも、食べ物にも飢えていた時代にぴたりとはまって大評判をとりました。二度の新訂版が出ているうえに、今は文庫で読むことができます。


nomiaruki.jpg さて、戦後奥山氏は中国人説などの誤った鄭永慶像を正すべく、1957年に『珈琲遍歴』を刊行し、詳細を紹介しました(これは1200部限定出版だったのですが、のちに旭屋出版から2度復刻されました)。翌58年には東京都喫茶業環境衛生同業組合と東京中日新聞の共催で、可否茶館開設70周年記念・喫茶まつりが開かれたと、62年小社刊行の『珈琲飲みある記』にあります。本書の著者、寺下辰夫氏は鄭家と縁戚関係のある川口家の出身。奥山氏とはコーヒー研究仲間であります。


shokudo196304.jpg 寺下氏は1963年4月号の『月刊食堂』でも可否茶館について詳しく述べておりまして、それによると、鄭永慶は上流階級のサロンである鹿鳴館に対抗し、庶民階級のための喫茶室であり、知識や親睦の“共通の広場”を作ろうとしたのが開業の動機だったそうです。
 たかが喫茶店にずいぶん大仰な感じもしますが、鄭は明治7(1873)年にアメリカのエール大学に留学しており、帰国後は岡山の師範学校の教頭職に就いた経験もあります。留学時代に知ったコーヒーショップやカフェの文化を日本に紹介しようというのが、鄭の志でした。そのため可否茶館はただコーヒーを提供するだけでなく、新聞や雑誌の読める閲覧室や化粧室、フランスのカフェで流行っていたビリヤードも備えておりました。

 しかし、鄭の夢は当時においては早すぎました。店を閉じた鄭は37歳でシアトルで没するのですが、失意の渡航と鄭の眠る地については、いなほ書房の星田宏司氏が『日本最初の喫茶店―可否茶館の歴史』でつまびらかにされておりますので、そちらをご覧ください。巻末には鄭が配った例の小冊子も採録しておりまして、彼の理想としたところがわかります。


hasshochi.jpg なお寺下氏は先の『月刊食堂』の記事中で、可否茶館の跡地に記念碑を建てたいとも述べておりました。
それから40年。星田氏ら鄭永慶の生涯に魅かれた人たち、鄭一族の子孫会、日本コーヒー文化学会や珈琲業界といった数多くの有志の協力によって、2008年4月に記念碑が建てられました。実はこの場所は、柴田書店の入っているビルから歩いて1分の距離。SANYO東京ビルの横にありまして、大通り道を挟んではるか先には上野松坂屋が望めます。
松坂屋が可否茶館の開業時にはまだ和風の呉服屋だったことを考えると、その先進性がうかがえます。


 さて可否茶館から経ること20余年。明治44(1911)年12月12日に銀座に開店したのが「カフェー・パウリスタ」です。同店は日東珈琲の前身であり、創業の地には1970年に同名の喫茶店が復活し、今も営業を続けています。パウリスタの歴史については、店で配られているパンフレットからもうかがえますが、ここは一つ、日東珈琲元社長の長谷川泰三氏による『日本で最初の喫茶店「ブラジル移民の父」がはじめたカフェーパウリスタ物語』という長ーいタイトルの本で、さらに深く味わってほしいものです。

 おっと、またまた「日本最初の喫茶店」が登場して参りましたが、コーヒーを主力商品とした純粋な「喫茶店」という業態の第一号という意味では、この店もまた日本初を冠する資格があるでしょう。パウリスタとはサンパウロっ子という意味のポルトガル語。ブラジル移民の父と呼ばれる水野龍は、その功績からサンパウロ州政府から無償でコーヒー豆の提供を受けました。ただし、日本にブラジルコーヒーを紹介、普及させるという条件つき。そのために開いた店がパウリスタだったのです。
 なにしろ無償ですから安く提供できました。プランタンが文化人が集まるちょっと敷居の高い店だったのに対し、学生でも入れる金額と雰囲気でした。普通のカフェーでは女給さんがサービスするのに対し、パウリスタでは海軍士官風の制服を着た少年たちが給仕した点も大きく異なります。どうも硬派なのが社風のようです。商品のキャッチフレーズからして「鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱きコーヒー」ですし。
 もっともパウリスタには瀟洒な女性用ルームもありました。「元始、女性は実に太陽であった」で有名な平塚らいてう(こちらも映画になりましたね)の女性解放誌『青鞜』のメンバーたちが、愛用していたそうです。そのほか多くの文学者たちがパウリスタを訪れ、同店を作品の中で描写しておりますが、詳しくは長谷川氏の著作で。
 コーヒーを普及させるのが設立目的ですから多店展開にも熱心で、支店があったと推測される場所は全国26カ所におよぶそうです。大正末には関東大震災とサンパウロ州のコーヒー無償期間が切れたダブルパンチで、これらの店舗を手放してしまいますが、日本各地にコーヒー文化の芽を広めたのは間違いありません。水野龍は震災の翌年に65歳でブラジルに渡り、大戦中の帰国を挟みますが、92歳で彼の地で亡くなっております。
 こうしてみると喫茶店黎明期の創業者たちは、ずいぶんと情熱家で、社会貢献に熱心です。時代が違うといえばそれまでですが、株価に一喜一憂し、テレビ出演に熱を上げるような昨今の飲食店経営者にちょっと煎じて飲ませてやりたい気がします。


  
  

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2010年11月08日 11:07に投稿されたエントリーのページです。

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