【 vol.13 】
レシピを公表する勇気と侠気
前回紹介した五色の酒ですが、フェラン・アドリアのスペシャリテである「ミント風味のグリーンピースのスープ」みたいだ…と思われた方がいるかもしれません。この料理は冷たいスープの上に熱いスープをそっと流し、2層の状態にしたもの。それと知らずにくいっと一気に飲み干すと、湯気を立てていた熱いスープのはずが途中で冷たいスープに変わる。飲み始めと飲み終わりで温度差のある液体が口の中に飛び込んできて驚かされるという仕掛けです。五色の酒は色のコントラストの美しさに価値を置きますが、こちらは温度のコントラストがポイントでして、同じグリーンピースのスープでも、温度が異なれば引き出されるおいしさも違うことがよくわかります。一品で二度おいしい、というわけです。
こうした意外性に満ちた料理を発表し続けたのが、スペインのロサスという非常に交通の便の悪いところにありながら、世界中からお客を集めるレストラン「エル・ブジ(el Bulli)」です(カタルーニャ方言の発音に近い「エル・ブリ」と表記するほうが正しい、と言い立てる本もありますが、フェランを日本に紹介した功労者であるスペイン料理研究家の渡辺万里氏に敬意を表して、標準スペイン語のエル・ブジで通させていただきます。向こうじゃ普通にスペイン発音で呼ばれているそうですし)。欧米の料理界に旋風を巻き起こし、日本でもいろんな媒体で取り上げられました。いっとき、エル・ブジをまねた料理もあちこちで見かけましたね。一方で彼の料理は意表をつくだけだとか、科学実験みたいで肝心の味はさっぱりだとか毀誉褒貶も激しかったです。
私自身はエル・ブジの料理を食べたことがありませんので、わざわざスペインまで出向いて召し上がられた方たちの足元にも及びませんが、それを承知で一言申しますと、持ち上げる方もけなす方も日本のマスコミはどこまでわかっているんですかね…。エル・ブジの料理書としては、CD‐ROMつきの角川書店の『エルブリ1998‐2002』や凝った造りのファイドンの『エル・ブリの一日』などやたらにぶ厚くて高価な本が知られているため、なかなかお手にとりづらいのかもしれませんが、渡辺氏の『エル・ブジ至極のレシピ集』や私どもの『エル・ブジ コレクション』や『スペインが止まらない』のシリーズもございます。こちらは薄くても料理のレシピが載っておりますので、ちゃんと読んでよく勉強するように。
というのも、いわゆるリョーリヒョーロンカの方々は、精神論や経験談はお好きなのですが、料理のレシピにはご関心ない。「料理長こだわりのどこそこ産のホンモノの食材を使った(この食材の説明がまた、体がかゆくなるほど知ったかぶりで恥ずかしい)」と「旬の素材の持ち味を引き出している(でも、その持ち味ってどんなもので、どうやって引き出したのかはえてして書いてない)」という2種類の決め台詞で、法務大臣並の激務を乗り切ってこられた。そんな方たちが突然、エル・ブジの料理の作り方がいかにユニークであるかを訳知り顔で語り出したものだから、ちょっと苦笑してしまいました。
音楽を鑑賞するのに楽譜を読めなければならない、楽器の一つも弾けなければならないという道理はありません。でも、まがりなりにも評論家を自称されるなら楽譜にも目を通したほうが、いえ、せめて楽器の名前くらいは知っておいたほうがよいのでは…。レシピからは食事の感動やリアルな味を想像するのは困難ですが、料理の構造と作り手の意図くらいは探れます。ところが普段からレシピを読み飛ばしてらっしゃる評論家先生やブロガー先生ほど、聞きかじりの薀蓄を語りたがるんですよねえ。感動や味を表現する筆力のなさを隠すためなんでしょうかねえ。
まあ、レシピが読める同業者においても、フェランの真意をどこまで理解できているかというと、難しいのは事実なんですが。たとえばフェランは、ソースをガスでムース状にしたり、海草由来の凝固剤で固めたゼリーを温めて提供したりというように新しい食感の創造に熱心ですよね。しかし口に入れた時の印象を左右するのは固さや温度以外にも、料理のポーション、すなわちどれくらいの大きさのものが口に入るかも重要なんです。ちょっとぴんとこないかもしれませんが、試しにティースプーンでちまちまカレーを食べてみてください。普段とちょっと違う印象に、ひと口の量が味に深く関わっていることがわかると思います。
エル・ブジの料理のもう一つの特徴である、串に刺したりスプーンにのせたりする盛り付けは、見た目の奇抜さや美しさだけでなく、口に入る量をコントロールする効果もあります。そこを計算に入れて味を組み立てているわけです。ところが、日本のエル・ブジもどきの料理はこうしたプレゼンテーションだけをなぞってただ刺したり、のせたりしただけのものも多かったように見受けられます。おまけにエル・ブジ風をやたら喧伝するものだから、事前にどんな料理が出てくるか想像できて驚きもありません。
フェランのほうからすれば、エル・ブジまがいの料理が世に広まることは、自分の首を絞めることになります。映画館でミステリー大作を封切る前に、下手なライターが書いたノベライズであらすじが広まってしまうようなものです。にもかかわらず、新しいアイディアを公表しているところに彼のすごさがうかがえます。マスコミに公表することで発明のプライオリティを確立するという合理的な考えです。また、アイディアは真似されてもされなくてもいつか陳腐化するのは避けられませんが、そのスピードを上回る速さで新しい料理を創造できるという自信のなせるわざでもあるのでしょう。
一方日本の料理人の世界では、同じ店のスタッフの間でさえ調理上の秘密を隠すなんてみみっちい話をよく聞きます。鍋洗いのスタッフが鍋底に残った汁を味見できないようにわざと洗剤を入れてから渡すとか、肝心要の作業は別室でこっそり行なうとか。それでいて、「あいつにおれの仕事を盗まれた」とかなんとか、やたら言い立てる。まあ、おおむねこういうタイプの料理人は、自分の技量がたいしたことがないのがばれるのが怖くて隠しているのでしょう。
祇園の料理人、西岡長久氏の随筆『京料理のこころ にしきぎ』にこんな話が出てきます。著者の師匠がこれまでの仕事を集大成した本の出版記念パーティ上で「この書物が出版、販売された今日この時より、私たちのどの店においても、この書物に写された、いずれの趣向や演出も使ってならないと覚悟するように申し送った」というのです。その店で修業しているスタッフや弟子たちにしてみれば、せっかく習ってきた料理を師匠が本で公表するのはただでさえ面白くないでしょうが、師匠からすればそんな了見はとんでもない、過去の私の料理なんぞは越えてみせよと、ハッパをかけたというわけです。
ちなみに西岡氏のこの本は『宗教と現代』という仏教関係の雑誌の連載をまとめたものだけあって、ちょっとまじめすぎるほどまじめな内容なのですが、文体に品があり、知識の丸写しなどではなく著者の経験が散りばめられていて読み応えがあります。何より仕事の悩みや正直な気持ちが書かれていまして、好感がもてます。
西岡氏はもう1冊『西花見小路 料理人の伝言』という随筆も出しておりまして、こちらは新聞連載をまとめているため1話2ページの構成なうえに話題も季節の料理が中心で、気軽に楽しめます。それでいて食材の描写にも持ち味の表現にも西岡氏独自の視点があり、料理評論家諸氏の追随を許しません。巻末にはちょっと長くて厳しい内容の「料理人をめざす若者に」という章がありますが、これは、すでに料理人になってかれこれ何年という人たちも、これから料理人をめざすにはちょっと勇気のいるおじさんたちも、ぜひ読んでいただきたい。たとえばこんな一文も。
「新しい発見をした時など、そのまますぐに教えるのは、いささか惜しいような気がすることもある。もう少し、自分の手の中で暖めておきたい気持ちだけれど、結局、教えてしまって、喜びをわかち合う。人が真似て、同じようなものが作られるが、それは仕方がない。新しい料理を考え、創り出す行為は逆の場合だってあり得るのだから」
新しい料理を思いついた誇らしさとちらりとよぎる独占欲。しかしそれを上回る、感動と進歩をみんなと共有したいという気持ち。ああ、この人は心底料理好きなんだなあ、というのが伝わってきます。そして、弟子への愛情も。