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2010年05月21日
料理本のソムリエ [ vo.3 ]
【 vol.3 】
あまたある寿司の薀蓄本の元ネタは?
小社は蕎麦関係の本は得意としておりますが、すしとなると正直なところあまり出版点数がありません。
最近では銀座「鮨処おざわ」主人の技術を紹介する『すしの技 すしの仕事』、 別冊OYSYシリーズの『すし』 (ちなみに本文イラスト担当はテレビドラマ「キッパリ!」の原作者さん)あたりでしょうか…。
しかし忘れてならないのが、すし業界の金字塔ともいうべき重要書籍、篠田統先生の『すしの本』です。
前回李盛雨氏の恩師として登場した篠田先生は、食物史の大家としてこの世界で知らない者はおりません。本書はその著書『中国食物史』(柴田書店)と並んで名高い、料理史研究の古典的名著です。
1966年に初版が出たあとわずか5年で12版を重ねて改訂増補、93年には新装復刻しました。いまは岩波現代文庫に入っています。
もともと理系だった篠田先生は、すしを調理学、生化学、食物史の3点から総合的に捉えようとしました。そうすることで、難しそうなテーマを難解に説くのが学問だと思っている学者たちの視界には入らない、すしというジャンルに、光を当てようとしました。
増補版の序文には、「日本中のだれもが知っている「すし」のように身近なものでも学問の対象として立派に通用するし、また実際、秘伝ばかりに頼って学問的の綿密な研究を怠ってはその進化、発展は困難であること、ならびに、その研究結果を表現するのには日本中のだれもが使う言い表わし方で十分であることなどを、この本で示したかった」とあり、パイオニアの意気込みと苦労がしのばれます。
ただし握りずしにしか興味のない人には、この本はあまりお勧めできません。というのも、篠田先生がすしに関心をもったのは琵琶湖の鮒ずしとの出会いからで、その研究目的はすしの歩みと広がりを掘り起こすことにありました。日本各地に伝わる様々なすしの種類や分布を紹介し、中国に始まるすしの歴史を解き明かすなかで、江戸時代に誕生した握りずしについては全体の10分の1も触れておりません。
しかし篠田先生は握りずしを軽視していたわけではありません。関西人である自分よりも江戸前ずしを語るのにふさわしい人がいるだろうと、道を譲ったのです。
篠田先生が握りずし研究を託したのは、日本橋吉野鮨本店の吉野昇雄さん。野口元夫の芸名を持つ俳優でもあり、映画「タンポポ」にも出演している異色の寿司店主人です。吉野さんが亡くなる半年前の1990年に出されたのが『鮓、鮨、すし―すしの事典』(旭屋出版)で、こちらは歴史文献を集めるとともに昔を知る同業者に取材した、握りずし学の集大成です。篠田先生の薫陶を受けたことが序文で語られ、巻末には先生との対談も収録しています。
その後、発酵文化と郷土食という視点からすしをとらえる篠田先生の研究は、『すしの歴史を訪ねる』(岩波新書)などの著作がある日比野光敏氏に受け継がれました。すし店主が仕事の内容や自分史を語る本も増えました。いっぽう握りずしの歴史をさらに深く追いかける作業はというと、吉野氏以降ほとんど進展していない印象をうけます。90年以降、すしマニアが薀蓄を語る本は枚挙にいとまがありませんが、どれもこれも篠田・吉野両氏の成果の丸写しです。
その一例を挙げましょう。最近江戸時代のすしを再現するという企画をあちこちで見かけますが、その典拠になっているのが1910(明治43)年に書かれた『家庭鮓のつけかた』です。1825(文政7)年頃に握りずしを発明したという説もある老舗「與兵衛鮓」のレシピをイラスト入りで細かく紹介したもので、当時のすしの実態がわかって実に面白い資料です。吉野氏の解説つきで1989年に主婦の友社より『偲ぶ與兵衛の鮓』というタイトルで復刻もされています。
かつての江戸前ずしはすし種を醤油に浸けたり酢で締めたりとひと手間加えてあるため、つけ醤油はいりませんでした。またすし飯に砂糖を加えないのが一般的でした。
そうした古い姿の江戸前ずしがこの本からうかがえます。
しかしだからといって、明治も末の本のレシピで「江戸時代のすしもこうでした」というのは短絡的すぎやしないでしょうか。この本に収録されている握りずしの図版は、1877(明治10)年開催の内国勧業博覧会に出品された絵の再利用であることが、吉野氏の調査で判明しています。そのため、なんとなくレシピも明治10年のままだろうという誤解を招いたようです。
すしの展示というのは奇妙な感じがしますが、日本の産業をアピールする目的で開かれたこの博覧会では、特産品から最新機械まで、国産品ならなんでもかんでも出品されていました。さらに分厚い出品解説書が作られまして、こちらも復刻版がありますし、オリジナルも古本屋で見かけます。試しに開いてみたところ、與兵衛鮓のレシピがちゃあんと載っておりました。
明治10年の與兵衛鮓のレシピと43年のレシピを比較すると、まずすし酢の配合比が違うことがわかります。43年のほうは酢と塩が同割で塩がずいぶん多いのですが、10年のレシピでは2対1でむしろ現在に近い。それでいてカスゴダイやアジの場合、塩と酢に浸ける時間が、10年では43年の倍の1時間。エビは20分間(!)をかけてゆでるのはどちらも同じですが、43年のレシピでは塩をあてて15分から20分間おいた後、酢に20分間浸してから三杯酢に1、2分漬けるのに対し、10年は1時間20分も塩をあてておく一方で、酢で洗うだけで、さらに三杯酢ではなくミリン醤油で調味した酢にくぐらせています。
保存のためなのか、明治の初めのほうが塩味、酢味が突出していそうです。
ところが大正時代の末に実際に與兵衛鮓を食べた吉野氏によると、菓子のように甘かったそうなのです。たとえ老舗の名店といえども、時代に応じて常に変化しなければならなかったのでしょうか。
投稿者 webmaster : 13:38
2010年05月19日
こんなに変わった、パン屋の店づくり!! 編集担当者より♪
『Bakery book [ベーカリーブック] vol.4』
柴田書店MOOK
発行年月:2010年5月20日
判型:A4変 頁数:192頁
2007年から年1回のペースで刊行している「ベーカリーブック」。
毎回さまざまな形態のベーカリーを紹介してきましたが、
今号も、時代の先端を行く、ユニークな店をたくさん詰め込みました。
大特集は、「こんなに変わった、パン屋の店づくり」。
そう、パン屋さんはいま、ドラスティックな変貌を遂げているのです。
たとえば、いままでのパン屋さんのイメージは、
(1) トレイにのったパンを選ぶ、セルフサービススタイル
(2) 物販業である
(3) 消費者が共通して描く、パン屋さんのイメージに沿った店づくり
ところが、最近の店づくりの傾向は、
(1) お客さんとのコミュニケーションがとれる対面販売が主流に
(2) カフェ、イートインスペースを併設している
(3) 店主の個性が表現された、独自の空間
念願の独立開業を果たした若き店主は、言います。
「対面販売で、それぞれのパンの特徴を伝えたい」
「焼きたてのパンを、その場で味わってほしい」
「パンに合う料理やドリンクも提案したい」
彼らが思い描く店は、パンの“製造・販売”から一歩踏み出した、“パンの提案”の場。
パンをつくって売るだけでなく、お客さんに自分なりのパンの楽しみかたも伝える。
それが理想のようです。
店は、パンを“売る・買う”ための空間から、パンを“伝える・楽しむ”空間へ。
日本のパン文化も、いよいよ成熟してきたように思います。
投稿者 webmaster : 15:11
料理本のソムリエ [ vo.2 ]
【 vol.2 】
チャングムの宮中料理のレシピって?
前回、中国には料理文献があまり伝わっていないと書きましたが、その理由は出版文化の違いにあります。儒教の国に生まれた彼らにとって、政治や思想などの堅い話題こそが著述すべき事柄であり、実用書なぞは二の次だったわけです。中国の古文献は出版ジャンルに偏りがあり、農業書以外の技術書や旅行案内、娯楽書のたぐいもそう多くはありません。
それはお隣の韓国も似たようなもの。ただ、韓国は中国と違って料理人は女性であり、女子供用の表記法であるハングルもありました。そのため家庭の味を伝える資料も若干残っているのが中国と違う点です。
こうした料理書を詳細に研究し、韓国料理史という分野を開拓した李盛雨氏は、日本の篠田統先生の教え子であり、先生の勧めで自国の食文化研究を始めたそうです。韓国だけでなく、留学していた大阪の図書館に所蔵されていた朝鮮王朝の資料なども調査されています。その著書『韓国料理文化史』(平凡社)は、日本料理と比較する視点も持ち合わせているので、その研究は深く、客観的です。日本料理史や中国料理史の研究書にもこれだけの内容の本はなかなかありません。
ところで朝鮮の王宮では、女官たちが料理を作っていたのはチャングムのドラマを見た人ならご存知でしょう。その伝統を唯一受け継ぎ、韓国の人間国宝になったのが故・黄慧性先生です。彼女も戦前福岡と京都の女学校に留学しており、その日本語はそんじょそこらの日本人よりもずっと美しく、上品な言葉遣いでした。黄先生は日本で対談本『韓国の食』(平凡社)を出版していますが、この対談は日本語で行なわれたのでしょう。
私が黄先生に会ったのは、小社の『韓国料理 伝統の味四季の味』のためでした。著者の李信徳先生の「恩師である黄先生に序文を寄せていただき、著者写真にはツーショットで写りたい」というたっての願いで、担当編集者とカメラマンが急遽韓国に渡ることになったのです。携行人数合わせに同行しないかとお呼びがかかり、私も私費で大阪経由韓国行きという次第に相なりました。
黄先生はゲラを見ながら、「あらあ、この料理はどうしてこうしたのー」などと笑いながら質問され、李さんは大汗をかきながら写真を説明していました。弟子が立派な本を世に出したのを喜びつつも指導を忘れない、師匠と弟子の厳しくも温かいやりとりでした。
その日の夜は黄先生の紹介で、あちらの国立劇場で行なわれた李朝の宴会を再現する舞台を観覧しました。1795年に開かれた、国王の母の還暦を祝う宴会の式次第『園幸乙卯整理儀軌』が伝わっており(この本は大阪府立図書館にもあります)、それに基づくものです。料理は日本の神饌のような高盛り。宴席に運ばれた作り物の巨大な桃の中から鶴が飛び出てきて舞い踊る演出には度肝を抜かれました。さすがにこれはフィクションだろうと思いきや、『園幸乙卯整理儀軌』にこのシーンが描かれているのを見てさらに驚きました。
ただ李朝の宴会はそんな愉快な演出ばかりでなく、長幼の序を重んじるために挨拶と順序にうるさく、同じ動作の繰り返しが非常に多く感じられました。きっと宮中もそういう堅い雰囲気だったのでしょう。その点、ドラマのチャングムは自由奔放なうえ、料理描写がずいぶんと美味しんぼ調です。歴史ドラマではありますが、日本でいうなら暴れん坊将軍的な立ち位置の作品と思って鑑賞するのが正解でしょう。
そもそもチャングムは16世紀前半が舞台の物語ですが、韓国に現存するもっとも古いレシピ集『飲食知味方』は1670年頃書かれたもので、これは宮廷ではなく家庭の主婦が娘のために書き残したものです。ドラマで登場する料理は黄先生の娘さんの監修ですが、李朝の宮廷料理といってもずっと下がった後世のものを下敷きにしています。
私が訪問した当時の韓国では宮廷料理は実にマイナーな存在で、新羅ホテルほか2、3軒でしか味わえませんでした。それがドラマをきっかけに一気にブームが起きて、今では宮廷料理店がそこらじゅうに見られるとか。2006年に亡くなった黄先生は、どう感じていらっしゃったのでしょうか。
投稿者 webmaster : 10:10
2010年05月06日
料理本のソムリエ
ビンテージ物(古本)からカリテプリ(お勧め良書)まで
給料のほとんどを新旧料理本に捧げる書籍編集者 T氏が、
ワインよろしくその来歴や特徴を、余計な薀蓄てんこ盛りで解説します。
【 vol.1 】
日本の料理本の数の多さは世界一!
柴田書店の本で、古書業界でもっとも評価が高いのは、川上行藏先生編集による『料理文献解題』でしょう。これは室町時代や江戸時代に書かれた料理本について、どんな内容でどこの図書館が所蔵しているのか、表紙の写真入りで解説する本です。
つまりブックガイドでして、古書店にとっては仕入れや値付けの参考書として使えるありがたい存在なわけです。なにしろ今のようにインターネットで古文献の情報が簡単に検索できるようになる以前は、定価以上で販売されていましたから。
仕入れの参考書と聞いて、驚かれる方がおいでかもしれません。「この本で取り上げられている江戸時代の料理本が、いまだに古書店で売られているの?」と問われれば、答えはイエスです。
当時ベストセラーだった料理書は、出版点数の多さが物を言いまして、200年、300年経った平成の世まで失われず、無事伝わっているのです。
かくいうわが柴田書店ももう何十年も前の話ですが、資料用に江戸時代の料理書を大量購入しています。ところがその直後、江戸時代の料理本の有名どころ50種類が『江戸時代料理本集成』のタイトルで臨川書店から復刻されてしまったので、希少価値はずいぶん薄れてしまいましたが。
臨川書店の復刻はオリジナルの本(原書といいます)とまったく同じサイズにし、糸で束ねる和とじの技法で製本するというかなりの凝りようでして、ただ写真製版したような味気ないものとはわけが違います。横長の本もあれば、小さい本もある、原書に忠実な復刻本で、これを手にしてもちょっとした江戸気分が味わえます。
なお復刻というのは正しくは「覆刻」と書きまして、「かぶせてきざむ」というのが本来の意味。江戸時代の本は版画のように文字を板に彫って刷られました。そこで元の本をばらして各ページを裏返し、板(版木といいます)にかぶせるように貼り付けて、裏写りした字に沿って彫ればあら不思議、新しい版木が作れます。コピー機のない江戸時代に本を複製するには、ひたすら手で写すしかありませんでしたが、大量に複製するには、この覆刻という技術が使われたのです。
江戸時代には中国で書かれた古い薬の本を、人命を救うために覆刻して普及させた、という美談もあります。オリジナルの本を彫るのに使えば、貴重な一冊が失われてしまうわけですから。この本は本家中国でもとっくに失われた稀少本であったため、覆刻本が里帰りして驚かせています。
ちなみに版木は摩滅するまで何度も使えるため、版元が資金繰りのために同業者に売り渡すこともしばしばでした。料理書の中には明治時代に入ってからも引き続き刷られたケースすらあります。絵も内容も昔のままですが、版元の住所が江戸ではなく、東京になっているのでそれとわかります。また内容は昔のままなのに、人物がちょんまげ姿は変だろうと、絵の部分だけ新しく彫り直している例もあります。
それだけ多くの料理書が出版されたのは、読者ニーズがあったからにほかなりません。日本人ほど料理書に親しんできた民族は、世界でもまれでしょう。フランスやイギリスでは近世に入ると各種料理書が出版されましたが、部数においては日本ほどではないように思います。中国においては、量はおろか種類も実に少なく、1910年に中華民国が成立する以前の料理本は20か30種類程度でしょう。これには農業書や養生の秘訣の本も含めての話で、料理のレシピだけを扱った純粋な料理書と言える本はもっと少ないのです。おかげで中国料理の歴史は、その実像をたどるのは非常に困難です。
日本の場合は反対に、文献がありすぎて研究がなかなか進みません。なにしろ版木で刷って販売された正式な刊行物も多いうえに、料理人たちが書き留めた手書きの料理本がたくさんあるからです。『料理文献解題』に収録された料理本は明治以降のものも数点含みますが、厳選して全200種類。このほかにも料理本は次々発見されていますし、ただの献立やちょっとした覚書のようなもの、料理の作り方にも触れている実用書まで対象を広げれば、それこそ無数にあります。
それでも、江戸時代の料理本を現代語に訳して解説をつけたり、当時の料理を復元するなど、研究は続けられています。『江戸時代料理本集成』も、崩し字のままでは読めない読者のために、洋装の活字本に仕立て直して索引をつけた「翻刻版」が出ています。
池波正太郎の小説中に、あたかも見てきたようなリアルさで料理シーンが描写されているのも、こうした豊富な蓄積があってこそなのです。
投稿者 webmaster : 10:25