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2010年05月19日
料理本のソムリエ [ vo.2 ]
【 vol.2 】
チャングムの宮中料理のレシピって?
前回、中国には料理文献があまり伝わっていないと書きましたが、その理由は出版文化の違いにあります。儒教の国に生まれた彼らにとって、政治や思想などの堅い話題こそが著述すべき事柄であり、実用書なぞは二の次だったわけです。中国の古文献は出版ジャンルに偏りがあり、農業書以外の技術書や旅行案内、娯楽書のたぐいもそう多くはありません。
それはお隣の韓国も似たようなもの。ただ、韓国は中国と違って料理人は女性であり、女子供用の表記法であるハングルもありました。そのため家庭の味を伝える資料も若干残っているのが中国と違う点です。
こうした料理書を詳細に研究し、韓国料理史という分野を開拓した李盛雨氏は、日本の篠田統先生の教え子であり、先生の勧めで自国の食文化研究を始めたそうです。韓国だけでなく、留学していた大阪の図書館に所蔵されていた朝鮮王朝の資料なども調査されています。その著書『韓国料理文化史』(平凡社)は、日本料理と比較する視点も持ち合わせているので、その研究は深く、客観的です。日本料理史や中国料理史の研究書にもこれだけの内容の本はなかなかありません。
ところで朝鮮の王宮では、女官たちが料理を作っていたのはチャングムのドラマを見た人ならご存知でしょう。その伝統を唯一受け継ぎ、韓国の人間国宝になったのが故・黄慧性先生です。彼女も戦前福岡と京都の女学校に留学しており、その日本語はそんじょそこらの日本人よりもずっと美しく、上品な言葉遣いでした。黄先生は日本で対談本『韓国の食』(平凡社)を出版していますが、この対談は日本語で行なわれたのでしょう。
私が黄先生に会ったのは、小社の『韓国料理 伝統の味四季の味』のためでした。著者の李信徳先生の「恩師である黄先生に序文を寄せていただき、著者写真にはツーショットで写りたい」というたっての願いで、担当編集者とカメラマンが急遽韓国に渡ることになったのです。携行人数合わせに同行しないかとお呼びがかかり、私も私費で大阪経由韓国行きという次第に相なりました。
黄先生はゲラを見ながら、「あらあ、この料理はどうしてこうしたのー」などと笑いながら質問され、李さんは大汗をかきながら写真を説明していました。弟子が立派な本を世に出したのを喜びつつも指導を忘れない、師匠と弟子の厳しくも温かいやりとりでした。
その日の夜は黄先生の紹介で、あちらの国立劇場で行なわれた李朝の宴会を再現する舞台を観覧しました。1795年に開かれた、国王の母の還暦を祝う宴会の式次第『園幸乙卯整理儀軌』が伝わっており(この本は大阪府立図書館にもあります)、それに基づくものです。料理は日本の神饌のような高盛り。宴席に運ばれた作り物の巨大な桃の中から鶴が飛び出てきて舞い踊る演出には度肝を抜かれました。さすがにこれはフィクションだろうと思いきや、『園幸乙卯整理儀軌』にこのシーンが描かれているのを見てさらに驚きました。
ただ李朝の宴会はそんな愉快な演出ばかりでなく、長幼の序を重んじるために挨拶と順序にうるさく、同じ動作の繰り返しが非常に多く感じられました。きっと宮中もそういう堅い雰囲気だったのでしょう。その点、ドラマのチャングムは自由奔放なうえ、料理描写がずいぶんと美味しんぼ調です。歴史ドラマではありますが、日本でいうなら暴れん坊将軍的な立ち位置の作品と思って鑑賞するのが正解でしょう。
そもそもチャングムは16世紀前半が舞台の物語ですが、韓国に現存するもっとも古いレシピ集『飲食知味方』は1670年頃書かれたもので、これは宮廷ではなく家庭の主婦が娘のために書き残したものです。ドラマで登場する料理は黄先生の娘さんの監修ですが、李朝の宮廷料理といってもずっと下がった後世のものを下敷きにしています。
私が訪問した当時の韓国では宮廷料理は実にマイナーな存在で、新羅ホテルほか2、3軒でしか味わえませんでした。それがドラマをきっかけに一気にブームが起きて、今では宮廷料理店がそこらじゅうに見られるとか。2006年に亡くなった黄先生は、どう感じていらっしゃったのでしょうか。
投稿者 webmaster : 2010年05月19日 10:10