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2010年06月28日
人気資格の過去問題と出題傾向がこの1冊に!編集担当者より♪
『フードコーディネーター過去問題集 3級資格認定試験』
著者:特定非営利活動法人 日本フードコーディネーター協会 編
発行年月:2010年7月8日
判型:A5 頁数:128頁
フードコーディネーター3級試験…
初級だからといって侮ってはいけません。
出題範囲がとてつもなく広く、内容も多岐にわたるのです。
その試験対策用に過去の出題をまとめたのが本書です。
◆ 3級資格認定試験での習得すべき事柄は以下の4項目◆
第1科目 文化 ―― 食文化
◎食の歴史と文化と風土
◎食品・食材の知識
◎調理方法と調理機器
第2科目 科学 ―― 健康と栄養と安全
◎厨房機器・設備
◎健康と栄養
◎食の安全
第3科目 デザイン・アート ―― 食環境デザインと芸術的創造性
◎食空間とテーブルコーディネート
◎テーブルマナーとサービス
◎食空間とデザイン
第4科目 経済・経営 ―― 経済的概念と食関連事業経営実務
◎フード・マネージメント
◎メニュープランニング
◎食の企画・構成・演出の流れ
公式テキストを読んで「なるほど、なるほど」と理解したつもりでも、
いざ試験となって、正誤判定、用語選択、語句の結びつきなど
出題形式が変わると混乱するものです。
試験問題に慣れる意味でも、
腕試しにも本書の活用をおすすめします。
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3級資格取得の必携本!
『新版 フードコーディネーター教本』
著者:特定非営利活動法人
日本フードコーディネーター協会 編
発行年月:2010年1月27日
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投稿者 webmaster : 10:36
2010年06月23日
料理本のソムリエ [ vo.5 ]
【 vol.5 】
魯山人先生、築地へ行く
ある魯山人本に、北大路魯山人は美食倶楽部時代に、築地へみずから足を運んで魚を仕入れていた、という記述がありました。前回申し上げた築地信仰のよい例でして、もうどこから突っ込んでよいものやらわかりません…。
まず第一に、魯山人が美食倶楽部を開いていたのは大正時代ですから、魚河岸といえば日本橋のこと。美食倶楽部があったのはそこから1kmも離れていない京橋東仲町です。まあ、これは誰にでもわかるケアレスミスですが。
問題は、魯山人が魚河岸へ足を運んだ事実をどう解釈するかです。市場に足を運ぶのをおっくうがる凡百の料理人と比べて、さすが魯山人先生は偉かった、とおっしゃりたいようなのですが、そんな現代感覚で簡単に物事を解釈してもらっちゃ困ります。
というのも、東京の料理人さんの回顧録を見ると、料亭の魚の仕入れは店の主人、すなわち経営者の担当で、料理長は市場に行く習慣はないとあるんです。
小社の『味を奏でる人たち』は、15人の料理長の修業時代の話をまとめたものですが(その中には、短い時期ですが魯山人のいた星岡茶寮も体験している桑原清二氏も登場します)、この本の中で銀座「松本楼」に務めていた宮澤退助氏は、主人が包丁を握ることの多い関西は別として、「料理人が河岸に行くようになったのは戦後のことじゃないでしょうか」とまで語っております。もちろんこれは高級料亭の話でして、小料理屋や食堂では話が別だと思いますが…。
市場は現金支払いですから、財布を握る者でなければ相手にしません。とはいえ雇い人に大金を預けた日には、ピンハネされないとも限らない。経営者は胴巻きに現金を入れて羽二重姿で市場に向かい、高級魚を扱う上物屋の帳場で仕払って、荷物は見習いの若い料理人が潮待茶屋から大八車で持ち帰るというのが通常の仕入れスタイルだったようです。実際、戦前の経営者座談会を読むと、せっかく自分が仕入れた魚に対して「こんなもの仕入れやがって使えやしない」と料理長に陰口を叩かれるのが、しゃくに障ると嘆いています。
その点、美食倶楽部の経営は友人の中村竹四郎と共同ですから、魯山人は経営者といえなくもありません。主人みずから包丁を持つ「板前割烹」という業態が広がったのは大震災以降ですから、魯山人のような存在は珍しかったかもしれません。
それでは築地市場が仮営業を始めた昭和の初め、すなわち星岡茶寮時代の魯山人はどうしていたかというと、昭和6年の料理雑誌で市場関係者が証言しています(匿名記事なのですが、私は前回紹介した『魚河岸怪物伝』に登場する長谷川秀雄とにらんでいます)。
星岡茶寮は前の晩に問屋に電話注文して翌朝届け、品物の鑑定は問屋まかせという「大名買い」の代表例。とにかくその日に河岸にあるものの一流品を選んで、これ以上の物はございませんと言って届けなければ気に入らない。問屋としてはいいお得意様だが、高くつくので見方によっては下手な買出しだと、見切られております。
ちなみにこの記事では、主人なり店の目利きのできるスタッフなりが買い出しにきて、一渡り河岸中の品物と相場を見て歩いて大勢を見定めたうえで行きつけの問屋で買うのを「健実買い」、あちこち河岸をうろうろあさって、とにかく安いものを買うのを「素人買い」と呼んでおり、健実買いをする主人の店を好意的に紹介しています。
もっともこの暴露記事に恥じたのか、星岡茶寮の仕入れはその後、料理主任の担当となったようです。昭和10年頃に星岡茶寮主任となった松浦沖太氏は、「日本料理の四季」4号のインタビューによると、大抜擢されたときの魯山人の決めゼリフが「明朝から買出しに行け」だったそうです。またある時松浦氏は、魯山人に「毎日買出しに、どんな気持ちで行っているのか」と尋ねられ、「新鮮でいいものを買うようにしています」と答えたところ、「それは当たり前だよ、俺だったらその日の天気を考えてものを買うよ」と教えられたそうです。
北鎌倉住まいで夜にならないと店に来なかった魯山人ですが、たまには築地に行くこともありました。昭和11年4月21日に、星岡茶寮で発行していた機関誌『星岡』のスタッフと松浦氏を連れて、自動車で築地に通うのは自分が初めてだろうと自慢たっぷりに案内しております。松浦氏は以前も魯山人とともに築地に来たことがあるようで、魯山人はすぐに人込みの中にまぎれて姿が見えなくなってしまうのだとか。松浦氏が料理主任になったのは21歳の若さですから、初めのうちは魯山人が付き添ったのかもしれません。
まあ、こんなふうに最近の魯山人に関する文章は時代背景をまったく無視して書かれているので、実に的はずれ。
そもそも魯山人唯一の料理本『春夏秋冬 魯山人の料理王国』は、かつて発表した文章を昭和30年頃にかなり書き改めたうえで一冊にまとめたものなのですが、初出一覧でその旨を断っていないため、一部は星岡茶寮時代に書かれた文として通用しています。
『魯山人著作集』に至っては、オリジナルの戦前発表の文と変更後の単行本の文を両方とも収録したあげく、どちらも初出は同じ雑誌としています。読めば似たような話が二回でてくるので、誰か気づきそうなものですが…。『魯山人の料理王国』は新装版が別の出版社から出たり、『魯山人味道』に収録されたり、文庫化されたりと、注意書きをつける機会は何度となくあったのですが、いつまで経っても改善されません。
おかげで美食倶楽部や星岡茶寮の料理がどんなものだったかは、正しく認識されていません。その最たるものが、日本料理店が料理を一品ずつ提供するのは魯山人が始めたものという俗説です。一品出しの提供スタイルは江戸時代の料理本『即席料理素人包丁』にすら見ることができるのですが…。
すべての料理を膳や懸盤に盛りつけて、いっせいに客の人数分を運ぶには、それなりの広さの盛り付け台と大人数の仲居さんが必要です。それにこの手法だと、いったん料理を運んだら次は膳を引くまで仕事がありません。花嫁修業目的の奉公人をたくさん抱えた大名屋敷じゃあるまいし、人材派遣所から日雇いで仲居さんを雇うようになった明治大正時代、人件費がかかって仕方ありません。
そもそも魯山人が一品出しを創始したとしたら、普通と異なる提供法に仰天した客があちこちに書き残すでしょうが、そんなものは見たことがありません。当時書かれた星岡茶寮の評判を総合すると、「前菜」という提供スタイル、中国料理と日本料理の折衷を図った国際色あふれる料理、果物を多用するハイカラなデザートの3点が、よそと違って珍しかったようです。そのほか書家として、その日の献立を書いて客に配るサービスを行なった点(もっとも後にはスタッフに代筆させるようになりましたが)、陶芸家としては、大ぶりの鉢やまな板皿を焼き、それを食器に使用したという点もみのがせない特徴です。
魯山人の前菜は、4つの四角い皿を組み合わせ、おばんざい風の料理を盛ったもので、今の日本料理の前菜や先付とはかなり雰囲気が違います。この“偶数の小皿盛り”というスタイルはむしろ中国の江南料理の前菜に近い。そもそも彼は友人の樫田十次郎の奥さんが主催する支那料理講習会に通っていたため、中国の調理技法に基礎があるのです。星岡茶寮の名物料理に魚の姿揚げである「琥珀揚」がみられるのもそのためです(ちなみにこの料理は『魯山人の料理王国』にも登場していますが、魯山人が勘違いして昭和10年に命名したと書き改めたために、その来歴がさっぱりわからなくなっています。初出は昭和8年の料理講習会なのですが…)。なにしろ魯山人は美食倶楽部時代には、日本料理には油脂が足りないので改革したいと婦人雑誌のインタビューで述べているくらいですから。
果物を多用したのも当時有名な話でして、逆に「星岡茶寮は値段は高いが、実際に高価な素材は果物ばかりだ」と悪口を書かれたりしています。昭和9年の日本料理研究会の展示会でも果物の盛り合わせを出品していますので、本人も自信があったのでしょう。
小社刊の『日本料理入門』の著者藤本憲一氏は、昭和10年に星岡茶寮に入り、のちに姉妹店の銀茶寮の料理長を務めていた料理人ですが、本書中で再現している星岡茶寮時代の料理写真からも先の3つの特徴がうかがえます。丸のままの果物が盛り付けられているのは、今にしてみると少し野暮ったい印象も受けますが、当時の雑誌に載った写真もこんな感じでしてリアルです。
こうしてみると魯山人の料理は実に近代的なセンスがうかがえる反面、今の人が想像しているようなしっとりとした趣きのある感じではありません。最初に挙げた“築地に仕入れに通う魯山人”と同じく、現代人の感覚が生んだまぼろしのような気がしてなりません。
投稿者 webmaster : 15:07
プロがつくる166のサラダと109のドレッシング!! 編集担当者より♪
『サラダ・サラダ・サラダ』
柴田書店編
発行年月:2010年6月25日
判型:B5 頁数:216頁
2006年に刊行した本書の前身『ニューサラダブック』は
多くの読者のみなさんから支持をいただいたヒット作です。
こちらの表紙カバーの色はグリーン。とっても印象的なカバーでした。
担当のデザイナーの中村さんが、
今回もこの姉妹作と並んでも引けをとらない色を選んでくれました。
鮮やかな水色と青リンゴのようなみずみずしいグリーンです。
一番最初に提案していただいた色はもう少し淡くて優しい感じの色でしたが、
初校、再校と少しずつ調整して、はつらつとしたフレッシュなイメージに刷り上がりました。
見返しもカバーのグリーンと同色です。
いかがですか? 元気をもらえそうな色でしょう?
さて、本書は編集部3人で手分けをして取材に出かけました。
それぞれの担当のなかで心に残った、
ありそうでなかったサラダをいくつかピックアップしてご紹介しましょう。
◎ 『海水塩とハーブのトマトボール』
[取材担当:にへい]
サラダって見た目も要素だから、
ま、サプライズのひとつでんな。
歓声が上がるわ。
黄色、緑などいろいろな色のフルーツトマト、
プチトマトなどでバリエーションは拡大できるし、
つくり方もそんなにむずかしくないし……。
ただ、ひねくりまわすものじゃないから、
味のいいトマトでないと。
◎ 『豚ロースの山椒あぶりカボス風味』
[取材担当:にへい]
冷しゃぶタッチ、山椒の刺激とカボスの酸味で
豚ロース肉がバッカバカ何枚でも食べられるわ。
これ、ホントうまかったです。
脂の溶け具合が要諦かな。
ただ、これも捻り技じゃないから、
やっぱ、いい豚肉でないと……。
確かに、品質のいい豚バラ肉ならできるかもしれないなあ。
今度一度、実験しておくわ。
◎ 『サトイモ、豚バラ、ローズマリーのタルトレット』
[取材担当:いけもと]
「マルディ グラ」といえば、ガッツリ肉料理で有名ですが、
実は野菜メニューも充実しています。
オーナーシェフの和知徹さんに、
時代を先取りしたアイデア溢れるサラダをご紹介いただきました。
このメニューはマッシュしたサトイモに、
フォワグラの脂で炒めた肉類、
フレッシュのローズマリーを合わせたもの。
普通のポテトサラダにはない、複雑な旨みと香り、
ねっとり&サクッとした食感が特徴です。
手でつまめる気軽なスタイル、自家製タルトレットに盛りつけた
楽しいプレゼンテーションも見どころです。
ビールやワイン、カクテルにも合いそうです。
◎ 『枝豆とジャガイモのサラダ オリーブオイルの香り』
[取材担当:さとう]
味の濃いジャガイモのねっとりした食感に、
つるりとした枝豆の食感と豆の甘さ、
パン粉のカリッとしたツブツブ感が、
やめられない止まらない!
このサラダ、身近な材料だけでつくったものですが、
これぞ野菜の力と組み合せの妙。
パン粉の“カリッ”が決め手です。くれぐれもカリッとね。
冬だったら『百合根のオーブン焼きとおろし大根のスープサラダ』もおすすめです。
粗くすりおろしてあるので、
柔らかなダイコンの食感を楽しめるし、
寒い時期ならではのやさしい甘みが生きているスープです。
身体によさそう!。
投稿者 webmaster : 10:49
2010年06月02日
料理本のソムリエ [ vo.4 ]
【 vol.4 】
ワンダーランド、謎多き築地
先日、会社にラーメン店のかたから電話がありました。
つけ麺のスープ用にウルメイワシの煮干しを大量に仕入れたく、その入手方法を知りたいとのことです。畑違いの本にもかかわらず、小社刊の『だしの基本と日本料理』を読んで勉強されたそうで、嬉しい限りです。
ちなみに小社にはそうした熱心なラーメン屋さんに向けた、『プロのためのラーメンの本』 『プロのためのラーメンの本2』という別冊もございます(PR)。
『プロのためのラーメンの本』には、だし素材の図鑑を載せておりまして、そこにあるようにウルメイワシの煮干しは近年品薄なのです。
このラーメン屋さんは築地の鰹節屋さんに連絡したが、そこは鰹節専門だったため、残念ながら扱っていなかったそうです。そもそも東京の鰹節店はそば店が上得意なので、品揃えもそば向きのものが多いですね。かびつけをしていない裸節は関西、煮干しは中京の問屋が積極的に扱うなど、だし素材には地域差があります。
最近は、食材は何でもかんでも築地に集まると考えられがちですが、必ずしも築地がナンバーワンとは限りません。海産物でも車エビや海苔など、昔から市場外流通が中心のジャンルもありますし、場内の鮮魚においても、築地といえども取り扱う魚種に地域色があるのです。輸送に時間がかかる地域の鮮魚は、商品力に乏しいですから、高値がつかない限り、積極的には取り扱いません。東京のマーケットでは高値がつくのは何と言ってもすし種。逆にすし種に使わない魚種、たとえばハタ科の白身魚などについては、築地市場は弱い印象を受けます。
築地はテレビや雑誌に多く紹介されるようになりましたが、こうした実態は必ずしも理解されていません。築地で食材を仕入れさえすれば、材料費を惜しまない素人のほうがプロよりもおいしい料理が作れると豪語する、神をも(料理人をも?)恐れぬ本すら現れています。築地神話は肥大化する一方です。
そうした一方で、市場内から自らについて語り、築地とはどんなところなのか、理解してもらおうという動きが出てきました。今年2月に出版された小山田和明氏の『聞き書き築地で働く男たち』(平凡社新書)は、築地で働くさまざまな業種の大先輩にインタビューし、過去を振り返ってもらったもの。失われていく貴重な時代の証言です。マグロのような派手な世界だけでなく、練り物だの、小揚げ(競りの荷役)だの、ターレットトラックや台車だのといった市場を構成する様々なジャンルに目配りされている点で、他書の追随を許しません。ただし、それだけにマニアックで、市場に関する基本知識がないとその面白さを味わいきれないところがあります。
築地に関する基礎知識はどうやって仕入れたらよいか。ほぼ同じ時期に仲卸し3代目の生田與克氏が『たまらねぇ場所築地魚河岸』(学研新書)を出版しております。ただし、これは全体に妙なべらんめえ(江戸弁?)の語り口で書かれていてちょっと読みにくい。しゃべり口調は生田氏の持ち味のひとつですが、大修館書店から出した『築地魚河岸ことばの話』のほうが、一文一文が短いために読みやすい仕立てになっています。こちらはオールカラーという贅沢な造りの用語集であるため、知りたいことが端的につかめます。もっとも用語集なので、一から筋道立てて知りたい人には不向きですが。
がっつり築地について学びたい人には、ハーバード大の人類学者による『築地』(木楽社)が3年前に出版されています。日本人なら見落としそうな一見当たり前のことまできめ細かく調べ上げていますが、かなりの厚さで学術的。市場に出入りしたことがない読者は、やはり生田氏の新書から入門したほうがいいかもしれません。
ひとつ難をいえば、これらの本は歴史の解説に若干物足りないところがあります。何代も続いている店も少なくないため、当事者たちにはばかったのかもしれませんが、築地誕生のいきさつは、現在の移転問題を考えるためにも知っておくべきことだと思うのですが…。なにしろ移転問題を問う政治家アンケートの中に「市場が移転すると日本の食文化の伝統が破壊されてしまう」という回答があったのには驚きました。移転が原因で破壊されてしまう程度の伝統なら、日本橋から移ったときにとっくに失われていることでしょう。
日本橋魚市場の移転は明治時代からの懸案事項でした。それは衛生問題や狭さの問題もありましたが、魚の輸送に鉄道を利用するようになったという点も見逃せません。大正時代の東京案内書を読むと、貨物で運ばれてきた魚を上野駅、東京駅、両国駅から、いちいち運び込んでいたとあります。そのため大正後半には、品川から東海道線を引き込めるうえに、大型船も横付けできる芝浦の埋め立て地に移転することが一応内定したのですが、反対が多くて迷走。関東大震災直後に、とりあえず仮設市場が置かれたのですが評判が悪く、海軍跡地の築地が急浮上したのです。
ところが建設に時間がかかったうえに、市場関係者の既得権をめぐって揉めに揉め、仮営業の状態が昭和10年まで続きました。オープン後も不買運動が続いたすえ、16年には配給制度が始まるので仲買制度は廃止されてしまいます。戦後は戦後で物資不足。統制経済が解除された25年になって、ようやく築地は本格稼動したと言ってよいでしょう。
ちょうどこの年刊行の岩波写真文庫の『魚の市場』を見ると、魚は木樽や木箱で運ばれており、現在の築地とはだいぶ様子が違います。市場に入荷する魚の半分は鉄道で、残り半分は船で届き、トラック輸送はたったの5%です。いまや輸送手段はトラック中心ですから、湾岸の豊洲のほうが道が混まなくて便利という意見はたしかにその通りです。
なお戦前、戦中の築地をめぐる騒動については、尾村幸三郎氏の『魚河岸怪物伝』(かのう書房)から断片的に知ることができます。この本は小山田氏の築地で働く人たちが語る自分史とはちょっと違って、市場の大物たちの列伝です。人物にスポットを当てているため体系的ではありませんが、動き出した築地がどれほど多くの難問を抱えていたかは実感できます。
かつての昭和の移転は実に時間がかかりましたが、荷主へのリベート請求や偽の相場情報を流すといった不正も一掃でき、近代的な市場システムに移行することに成功しました。今回も移転するにせよ再整備するにせよ時間をかけて取り組むべきですし、先入観や誤解に基づく外野の介入は謹んでほしいものです。
まあ個人的には今の場所で市場を続けてほしいというのが、正直な気持ちではありますが。忙しい料理人さんにとっては築地の近さと地下鉄日比谷線で行ける便のよさがありがたく、移転すると通えなくなるという声が上がっています。編集者としては、仲卸しでの取材中に知り合いの料理人さんとばったり遭遇、なんていうハプニングがこれからも続いてほしいものです。
投稿者 webmaster : 14:20