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2010年09月28日
デリ・そうざい・弁当 中食ビジネスの専門誌 編集担当者より♪
『デリそうざい 2』
柴田書店MOOK
発行年月:2010年9月28日
判型:A4変 頁数:200頁
揚げものを最近食べましたか?
家で揚げましたか?
それともどこかで買ってきましたか?
揚げものは、自宅でつくるより買ってくるという人が増えているそうです。
理由はつくるには時間も手間も材料もかかること、
油の処理が悩ましいこと、油のにおいなどで
キッチンや部屋を汚したくないという気持ちもあるのだと聞きました。
「揚げものは中食店がつくるべきもの」という考えが、
お客側にもお店の間にも広まっており、
揚げものは、必ず売れる定番アイテム群と認識されています。
「デリそうざい2」ではそんな揚げものを大特集しました。
準備期間から発刊までの3ヶ月から4ヶ月は、毎日揚げもの三昧の生活。
なかなかヘビーな熱い夏でした。
わかったことは、揚げものの世界の奥深さ。
パン粉づけや揚げにも技術があり、つくり手の技量で差が出ること。
そして、毎日揚げものを買いに来るヘビーユーザーが
案外、多いということです。
お店の方にうかがったのですが、
常連さんは買う商品もほとんど決まっているのだそうです
(少し仕様を変更しただけでも問い合わせが殺到するらしい)。
たとえばある方は、
食パンの白とエビの赤が縁起がいいというのでエビカツサンドを指名買い。
またある方はいつでもロースかつと決めている、
あるいはミックスフライ弁当しか買わないなどなど。
毎回「それを食べたい」と思う、
それだけ安心感をもって買ってもらえるとは、本当にすごいことです。
飽きのこない商品のすごさをぜひ、今号で感じていただければ幸いです。
投稿者 webmaster : 18:50
2010年09月24日
料理本のソムリエ [ vo.9 ]
【 vol.9 】
江戸時代の蕎麦マニアたち
さて、いよいよドンブリの話の続きです。
かけそばの誕生のいきさつは1751年に書かれた『蕎麦全書』という本に出ております。この本は、当時の特色あるそば店を列挙したり、蕎麦や薬味の製法を解説したりと、全書という名に恥じない詳しさで、江戸時代のそばに関する薀蓄を語るときには欠かせない種本です。以下は下巻の「ぶっかけそば始りの事」から。
「新材木町に信濃屋と云ふ有り。是元祖也。其本は省略のため製し始めし也。尤も粗々たる一小家なり。此辺、車力、軽子多く集り会する場処なり。此ぶっ懸そばを製し出せしは、立ちながらも食するの便りにしたり」
新材木町は今の堀留町あたりで、日本橋の魚河岸にも近い。ここの信濃屋という小さな店が元祖だそうです。築地の回で説明した軽子や車力たちが、作業着のまま立食いするのに便利なように始めたもので、当時は下品な食べ方とされていました。しかし猪口や汁注ぎなどの付属品を必要としないので簡便なうえに、寒い時期には温かくして出すこともでき、広まったというのです。
なお前々回に取り上げた「けんどん争い」の最中で滝沢馬琴は「そば切の器物は、予が小児の頃は皿也。今は多くは平をも用ひ、小蒸籠又丼鉢をも用れど…」と述べております。馬琴は蕎麦全書完成よりもあとの1767年生まれ。この頃のそばは皿盛りだったということは、まだまだ、もりが中心だったのでしょう。それが馬琴と山崎美成とが大喧嘩した1825年には、平椀や丼も使われるようになった。つまり、かけそばが普及していったということを示しています。
かけそばを丼で提供するとなると、麺も汁もたっぷりの量が必要です。ひいては、明治時代以降に普及した支那そばも、日本人向けにスープたっぷりに仕立てるのが通常スタイルとなりました。一方中国はというと、前々回述べたようにドンブリという器はありませんから、この地で食べられる麺類は、タレで和えた和え麺であったり、汁と一緒に食べたとしても小椀に盛るものでした。最近ではタンタンメンは汁なしが本格的だという事実が広く知られるようになりましたが、それもそのはず、汁たっぷりのタンタンメンやラーメンは日本独自のものです。ちなみにタンタンメンは屋台風に担いで売り歩いたから「担々麺」でありまして、「坦々麺」と書くのは誤りです。もっとも日本式のものにはこの字をあてると決めれば、うまく呼び分けることができるかもしれません。
さて話を戻して蕎麦全書ですが、これは出版販売された本ではなく、手書きの原稿として伝わったもので、戦前はごく一部の人たちにしか存在を知られていませんでした。それを聞きつけ、広く紹介したのが故・新島繁氏です。『蕎麦うどん名著選集第1巻』と『食の風俗民俗名著集成第4巻』に収録されていますが、文語体のままなので、藤村和夫氏がさらに現代語に訳して解説をつけた『現代語訳「蕎麦全書」伝』が便利です。
「さらしな総本店」の店主でもあった新島氏は、蕎麦の歴史の研究に熱心で、同人雑誌「さらしなそば」を発行するほか、「日本麺食史研究所」を立ち上げて資料の蒐集に努めました。その蔵書はそばに直接かかわる資料はもちろん、民俗学や江戸文学などまで目配りした、日本一のそばコレクションです。
世にあまたある江戸関係書をながめると、寿司に比べてそばの歴史に関する薀蓄がやたら充実しているのは、新島氏が世のそば好きたちを結集し、資料を積極的に紹介し、考証してきたからにほかなりません。新島氏の著作には、「さらしなそば」への寄稿を集めた『蕎麦今昔集』や『蕎麦の世界』のような編著のほか、江戸時代のそば文献を紹介する『近世蕎麦随筆集成』、『蕎麦史考』、そして新島氏が校正作業後に急逝され、最後の著作となった『蕎麦年代記』などの専著があります。どれも文献にきちんとあたった学術的な内容で、箱入りの重厚感ある本です。
いっぽう気軽に読めるものとしては、編著の『蕎麦の事典』や、そばに関わる年中行事や地方のそば民俗を紹介して中公文庫にも収録された『そば歳時記』あたりがよいでしょう。
蕎麦の世界を見渡すと、新島氏のほかにも研究熱心な業界人が多いですね。たとえば浮世絵蒐集では、『そばの浮世絵』を出版した「風流田舎そば」の故・山本重太郎氏や、小社から『そばの歴史を旅する』を出版した「増音」の故・鈴木啓之氏の名が挙がります。
蕎麦全書の著者である日新舎友蕎子(にっしんしゃゆうきょうし)と名乗る人物も、店で食べるそばには満足せず、自らそばを打つと書いておりますが、こちらは同業者ではなく、当時のそばマニアと思われます。
ちなみに江戸時代のそば好きは友蕎子さんだけではなかったようです。蕎麦全書には仲間の「谷村氏」が、「平岡氏」とどちらがそばをたくさん食べられるか競争したエピソードが載っております。○○氏という呼び方から察するに、彼らは武士階級だったのではないでしょうか。二人の勝負の行方はというと、両名とも大重箱に盛った1升以上の量のそばをなんなくクリア。さらにお代わりを椀で出し続けたところ、どちらも21杯食べてみせた。さらに平岡氏はそらまめご飯を2杯たいらげてみせたとのことです。大食がたたってか、のちに平岡氏は亡くなりますが、谷村氏は70歳になんなんとしても起居壮健、以前のようにそばを食べたとか。
また友蕎子は、そば好きの親友2人(名前は不明)と連れ立って、量がやたらと多い日本橋馬喰町(新材木町の近くです)の蕎麦屋をわざわざ訪ねたりもしています。「そばを好みて馬喰町そば試ざるも遺念也。格物の一つ也」(そば好きとしては馬喰町のそばを食べたことがないというのも心残りだ。これは物事の理を究めるためである)というのが、動機です。“遺念”だの朱子学用語の“格物”だのと仰々しくて言い訳がましいのが、これまた武士っぽい。「どうだい、ちまたで話題のメガ盛りそばを食べに行こうじゃないか」というのが真相でしょう。
さて、うどん粉どころかヒエが入っているという噂すらあるこの店に、まずいのを承知のうえで入った友蕎子ら3名。直径30cmほどの大鉢に崩れんばかりに盛ったそばに、3人前が一つに盛ってあるのかと勘違いします。煮干しを使ったその汁はなまぐさく、胸につかえてなかなか食べられない。「いかもの食い」の友だち(もしかしたら谷村氏かもしれません)が1人前と半分を食べて手伝ってくれたものの、友蕎子ともう1人はギブアップ。少し残して店を出ようとしたら、お代わりをしているお客を見てさらに驚いたり……。のちのちまで話の種となったことでしょう。『蕎麦全書』のさまざまなそばに関わる情報は、こうした仲間との交流の中で集まったものかもしれません。
このように江戸時代にも確かにそばマニアと呼ばれる人たちがいたと思われます。蕎麦全書にはそば好きで、いろいろ工夫し、道具まで自分で作ってそばをふるまう凝り性の「土田氏」なる人物が出て参ります。しかし土田氏は、出来不出来があって満足いくそばが打てないことに気を病み、そば打ちを止めてせっかくの道具を譲ってしまいます。
また小社刊の「そばうどん」38号には江戸の各種料理書に出てくるそば汁の作り方について、千葉大名誉教授の松下幸子先生が紹介しておりますが、その1つ『黒白精味集』に「平尾正斎」と「横田甚左衛門殿」のそば打ち方法が登場します。この写本が書かれたのは『蕎麦全書』の5年前。著者である江戸川散人こと孤松庵(コショウにかけた筆名でしょうか)は、友蕎子グループと面識はなかったのでしょうか…。ちなみにさすがの新島氏も、『黒白精味集』には調査は及んでおりません。そば研究はまだまだ奥が深いのです。
プロである新島氏も、マニアの友蕎子も、自分でそばを打つために、そばに対する理解と思い入れが深いのが単なる食べ歩き好きとは違うところ。それでいて、自分が打つそばに自信はあっても、それ以外は認めないというような姿勢はありません。とにかくそばが大好きで、そばに関することなら何でも知ろうとし、それを後世まで伝えようとしてくれたのに感謝です。
平成の時代にもそば打ち自慢のマニアたちがたくさんいるようですが、批評家然として天狗になっている者も見られます。正直、愛が足りませんぞ。
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投稿者 webmaster : 18:12
2010年09月17日
地方料理がまるごとわかる決定版! 担当編集者より♪
『基礎から学ぶフランス地方料理』
著者:ル・コルドン・ブルー
発行年月:2010年9月29日
判型:B5変 頁数:268頁
「柴田書店におけるフランス月」の最後を飾る1冊が発売です!
その名も『基礎から学ぶ フランス地方料理』。
フランス各地で発達してきた伝統料理を、
パリの料理学校「ル・コルドン・ブルー」がていねいに教えます。
なんといっても、魅力は本場フランスのレシピを、
フランス人シェフが再現していること。
フランス料理の基礎技術から地方料理に関する知識まで、
ル・コルドン・ブルーが惜しみなく紹介しています。
フランス人の感性で仕上げられた美しい盛りつけも、
とても参考になるはず。
この1冊に、フランス地方料理の魅力がぎゅっと詰まっています。
レシピは全部で84品。
サラダやそば粉のガレット(クレープ)のように簡単に作れるものから、
パテや煮込み料理など時間をかけてじっくり作り上げるものまで、
メニューバリエーションも豊富です。
おいしそうな料理の一部をほんの少しだけ、ご紹介します。
「パン・バーニャ」 (ニース地方)
オリーブオイルをたっぷり塗ったパンに、
ニース風サラダの食材を挟んだサンドイッチは、
南仏のスペシャリテです。
ふんわりパンとアンチョビーの塩味、
たっぷりの野菜がとっても美味♪
「鳩のサルミ、カブイヤード仕立て」 (ボルドー地方)
ボルドー地方のジビエの代表格である鳩を使った料理。
鳩をいったんローストし、さらに鳩のガラで作るソースで
煮込むこの調理法は、カブイヤードと呼ばれます。
2度の火入れをそれぞれ的確に行なうのがおいしさの要。
「牛胃袋のパン粉焼き」 (リヨン、ブレス地方)
フランス語の料理名の意味は"工兵のエプロン"。
伝統的に牛のハチノスを前掛けのような形にして
提供することが多かったことから、このような名前がつきました。
サクサクの衣とプリプリのハチノスが絶妙なハーモニーを奏でる一品。
投稿者 webmaster : 18:24
2010年09月09日
料理本のソムリエ [ vo.8 ]
【 vol.8 】
帝国ホテル初代料理長のノート
前回の続き、かけ蕎麦の始まりについて…と言いたいところですが、
ちょっと寄り道です。
いま、日比谷の「帝国ホテル」では「帝国ホテルと芸術都市パリの輝き ―1890」というロビー展示を開催中で、遅まきながら見学してきたばかりなものでして…。帝国ホテルは今年が120周年。それを記念しての企画です。会期は9月30日までですので、ご関心のある方はお急ぎを。ちなみに柴田書店は今年60周年。ちょうど半分ですね。「柴田書店と文教地区本郷の賑わい ―1950」を文京区役所あたりでロビー展示するには、あと60年頑張る必要がありそうです。その布石として、小社のほうは全国書店でブックフェアの開催中ですので、こちらもお見逃しなく。
さて帝国ホテルが誕生した1890年は、フランス革命から101年後。前年の1889年には革命100周年を記念した博覧会が開かれ、エッフェル塔が建設されています。ちなみにパリの「ホテル・リッツ」開業は1898年。当時のヨーロッパの観光文化やホテル文化も進化の最中であり、そうした同時代の最新モードを意識しての開業だったことがよくわかります。
帝国ホテルというとフランク・ロイド・ライトが設計したライト館が名高いですが、今回の展示では大正11年(1922)に焼失した木造時代の旧館の写真も見ることができます。焼失当時、新館のライト館は本来なら竣工していたはずでしたが、天才のインスピレーションに振り回されて工期が遅れに遅れ、まだ建設途上でした。帝国ホテルは3年前の大正8年にも別館が焼失したばかりで、いよいよもって経営の一大危機を迎えます。そのため、当時の支配人の林愛作氏は責任をとって帝国ホテルを去ることになります。
そのほかにもライト館をめぐるエピソードは尽きません。フランク・ロイド・ライトと日本人建築家下田菊太郎との確執、新築披露のパーティ当日に迎えた関東大震災、林氏の後を継いだ犬丸徹三支配人のライト館に対する複雑な感情、戦後のライト館取り壊しと保存問題……。もっともこれらについては、すでにいろいろなメディアに取り上げられています。詳しくは『帝国ホテルライト館の謎』に譲るといたしましょう。
帝国ホテルの支配人というと犬丸徹三、犬丸一郎父子が有名で、ライト館建設に奔走した林氏の存在は長らくその影に隠れていました。それが20年前の開業100周年の際に出版された社史『帝国ホテル百年史』において再びスポットが当たり、林氏の功績が広く知られるようになったそうです。社史というと戦前の出来事などは適当にさらっと流しておいて、調べやすい最近の話題と企業の都合のいい情報だけを盛り込んだいい加減なものも少なくないのですが、この本は1000頁を越えるぶ厚さで、日本のホテル史資料としても使える内容の濃いもの。当時の新聞や雑誌にも目配りして資料を収集しております。
また同ホテルは『帝国ホテル百年の歩み』も同時刊行していますが、どちらも私家本なので、図書館でなければ見ることは難しい。社史編纂チームのメンバーのひとり、武内孝夫氏が『帝国ホテル物語』をまとめておりますので、こちらをご覧になるのがよいでしょう。ちなみに帝国ホテルを去った林支配人のその後に関しては、昨年出版された『甲子園ホテル物語』にて知ることができます。日本の旅館文化を取り入れた新しいホテルの姿を模索する林氏の先見の明に驚かされます。
さて、そんな総力を尽くした『百年史』ですが、帝国ホテル初代料理長については「吉川某」とあるのみで、未詳とされておりました。第一ホテル支配人にして食文化史研究家でもあった村岡實氏は中公新書の『日本ホテル小史』中で、パレスホテルに在籍していた田中徳三郎シェフから1971年に聞いた話として、吉川シェフは横浜の「グランドホテル」系だったと紹介していますが、それ以上の情報はありません。田中シェフは大正2年(1913)の帝国ホテル入社なので、先輩から伝え聞いていたのでしょう。先の大正8年の火災のために帝国ホテルの古い資料は失われており、同社に吉川シェフに関する文献は残っていなかったそうです。
ところがこのたび吉川シェフのフルネームが判明し、今回の展示で写真も披露されました。7月21日付の東京新聞朝刊によると、一昨年ひ孫にあたる方から帝国ホテル側に連絡があり、明らかになったそうです。
新聞報道によると初代料理長の名は吉川兼吉。1853年生まれで横浜グランドホテルで修業したのち、鹿鳴館を経て、帝国ホテルに入ったとのことです。鹿鳴館というと日本人高官が慣れない格好でステップを踏むダンスホールなんていうイメージがありますが、営業形態としてはホテルだったのです。
横浜グランドホテルの沿革については、『横浜外国人居留地ホテル史』がもっとも正確でしょう。戦前のホテルの歴史をまとめた研究書としては、運輸省観光部に在籍していた宮川肇氏がまとめた『日本ホテル略史』が筆頭に上げられるのですが、なにぶん敗戦まもない1946年の刊行でして、間違いも散見します。その点、各開業年で横浜の外国人ホテルを整理した同書では、改装休業中だった横浜グランドホテルの営業再開日が明治6年(1873)8月16日であることをつきとめるなど、『日本ホテル略史』の誤りを訂正しています。
同書によると横浜グランドホテルは新規開業からしばらくの間、料理長が二転三転したのですが、初代料理長はフランス人のルイ・ベギューだったそうです。ベギュー(Beguex)は村岡氏の『日本人と西洋食』では、江戸幕府の支援で開かれた日本初の本格的ホテルである「築地ホテル」の料理長として、新発見の明治4年(1871)の晩餐会のメニューとともに紹介されています。ひょっとして同一人物かもしれません。築地ホテルが明治5年(1872)に焼失してしまった後、横浜に移ったと考えればつじつまが合います。彼は明治8年(1875)にレストランを開業するためにホテルを辞めるのですが、うまくいかなかったのか、今度は明治15年(1882)に「神戸オリエンタルホテル」の前身である「オテル・ド・コロニー」を立ち上げております。
これらのホテルはどれも帝国ホテルと同クラスの高級ホテルであり、多くの料理人が巣立っています。ルイ・ベギューの功績はなかなかだと思うのですが、その名前自体が正確なのか不安ですし(神戸オリエンタルホテルの経営者は日本ホテル略史にはL.Bageaxと書かれているそうなのですが、これでは発音はバゴ。そのせいかルイ・ビゴーと紹介し、ベギューとは別人としている本もあります)、謎に包まれた人物です。
なお横浜グランドホテルは関東大震災の被害を受けて廃業してしまいますが、それに代わるホテルとして横浜市の支援のもとで、昭和2年(1927)年に「ニューグランドホテル」が開業します。こちらのホテルもまた料理に力を入れていたことで知られ、スイス人のサリー・ワイル料理長の下では、荒田勇作、馬場 久、小野正吉ほか多くの料理人が修業しています(ワイル氏に関しては『初代総料理長サリー・ワイル』という評伝が出ております)。ちなみに帝国ホテル4代目料理長の内海藤太郎氏は、ワイル氏の下に就いた後、神戸オリエンタルホテルの料理長に就任しておりまして、これらのホテルの厨房に交流があったことがわかります。
さて本好き料理好きとしては、今回のロビー展示でもっとも目を引いたのは吉川兼吉の料理ノート(複製)でした。その隣には、先だって亡くなられた村上信夫料理長のノートや氏がフランス修業中に購入したラルース・ガストロノミックやギッド・キュリネールも展示されておりました。村上氏のノートはラヴィオリの作り方のメモ。吉川シェフのノートもラヴィオリについて書かれたページが開かれておりまして、気がきいております。
ラヴィオリのページの隣は牛腎臓洋酒煮。吉川シェフは腎臓にロギョンとルビをふっていることから、フランス語については、耳からではなく読んで学んだと思われます(フランス語で腎臓はrognonとつづりますが、発音はロニョンですから)。となるとルイ・ベギューの下で直接学んだわけではなかったのか……。いろいろ想像が膨らみます。
先の新聞によると吉川シェフは帝国ホテルを辞めたあと、明治天皇や朝鮮の李王家の料理人を務め、1935年に朝鮮の地で亡くなったとか。後半生もエピソードに満ちていそうで興味がつきません。日本の西洋料理の基礎を作った料理人となると、フランスに渡って修業した田中徳三郎氏や秋山徳蔵氏などが有名ですが、それも、前の世代が築いた基礎があってこそ。西洋料理黎明期の開拓者たちの功績は、さらに掘り起こしていかねばならないでしょう。
投稿者 webmaster : 14:45
2010年09月07日
料理人のためのハム・ソーセージ教本 編集担当者より♪
『レストランのシャルキュトリー』
著者:櫻井 信一郎
発行年月:2010年9月2日
判型:A4変 頁数:160頁
シャルキュトリーcharcuterieは、
直訳すると「ハム・ソーセージなどの豚肉加工品」。
家庭ではハムとチーズとパン(とワイン)さえあれば食事が成り立つというほど、
フランス、ひいてはヨーロッパの食文化に欠かせない食べものです。
それを証拠に、これらを製造する職人は
シャルキュティエcharcutierと呼んで料理人(キュイジニエ)と区別しています。
つまり、シャルキュトリーはシャルキュティエの仕事。
フランスでは料理人がシャルキュトリーを作ることはほとんどなくて、
ビストロやブラッスリーでも専門店から買ってきたものを
スライスしたり、料理に使って提供しているのだそうです。
でも、ここは日本。
フランスのシャルキュトリーのような店はほとんど存在しません
(日本でハム・ソーセージというと、ドイツをベースにしたお店が多いのです)。
「ならば、自分で作ってやろう」
そう考えたのが、本書の著者である「ローブリュー」の櫻井信一郎シェフです。
“豚肉のスペシャリスト”として広く知られる櫻井シェフですが、
フランス修業中に学んだシャルキュトリーはわずか。
多くは2002年に「ローブリュー」をオープンしてから、フランスの本を読んだり、
試行錯誤を繰り返しながら今のレシピを作り上げたと言います。
小規模レストランの厨房という、広さや設備、人員が限られた中で
いかに本場フランスのシャルキュトリーに負けないものを作るか。
その中から23のレシピを、本書では惜しげもなく公開しています。
◎ブータン・ノワール
豚の血入りソーセージ。
フランスのビストロの定番メニューです。
ふわふわの触感と血と背脂のコクがたまりません。
◎パテ・ド・カンパーニュ
田舎風パテもおなじみメニューです。
櫻井シェフのパテ・ド・カンパーニュは肩肉、
のど肉、豚レバーを使った力強い味わい。
◎生ハム
櫻井シェフは毎年生ハムも仕込んでいます。
作り方は上級編ですが、
読んだら作りたくなること間違いなし、です。
「ビストロ」という業態が浸透し、シャルキュトリーへの注目も高まる一方の昨今。
フランス料理(もちろんほかの料理も!)に関わる人、必見の1冊です。
投稿者 webmaster : 17:07
野菜を上手につかったオードヴル満載!! 編集担当者より♪
『野菜でオードヴル』
著者:柴田書店
発行年月:2010年9月3日
判型:B5 頁数:272頁
今回も、行けるところまで行きましょう!
という勢いで始まった料理撮影です。
結局料理数は計346品にもなりました。
尽きることのない音羽シェフのアイデアには、
いつも感銘させられます。
宇都宮を愛するシェフらしく、
今回もご当地素材がいくつか使われていますが、
そのうちのひとつが、
全国の生産量の98%を占める栃木県の特産品、カンピョウ。
玉ねぎと一緒に炒めて砂糖とバターでカラメリゼさせて作るコンフィは、
肉に添えてもよし、あるいはサーモンの燻製などに添えておいしい。
◎ じゃがいもの牛肉ロールと
玉ねぎとかんぴょうのコンフィ
◎ サーモンハラミの燻製のポワレ
玉ねぎとかんぴょうのコンフィ
◎ りんごのジュレ
リンゴと一緒に砂糖とレモン汁を加えて甘く煮たコンフィチュールは、
アイスクリームなどのデザートにおもしろいアクセントを添えてくれます。
投稿者 webmaster : 09:45
2010年09月06日
伝統と独自の解釈を織り交ぜてつくる“うまいもん” 編集担当者より♪
『割烹 うまいもん』
著者:上野 修
発行年月:2010年9月3日
判型:B5 頁数:240頁
カウンターの中では、独特な“川用語”が飛び交っている。
たとえば、“おまかせスタイルの割鮮”だから、
『おまかっせん』なのであり、
これが何気ない刺身・造りと思いきや、
一つひとつにさり気ない“仕事”が施されている(詳細は作り方参照)。
それをなに食わぬ顔をして顧客に提供、
おっと驚く顔にほくそ笑む。
おそらくカウンター割烹の愉しみ方は、
主客のそうした同じ磁場、空気の交流にあると思われる。
非常に礼儀正しい厨房だが、スタッフの笑い声は絶えない。
そんな仕事場を垣間見せていただいた
(この取材現場はホンマ、おもろかったデ)。
が、雰囲気を少しでも伝えようと、
くだけた表現をレシピ原稿に落とし込んでも、
ごく真っ当な文章に書き換えてくる。
根は生真面目な著者を物語る逸話である。
ちなみに創業者(上野修三氏)は現在、
浪速野菜の研究者として活躍しているだけでなく、
著者ともども食都・大阪の食文化、
観光面などを国内外に向けアピール、
情報発信する仕事にも携わっている。
投稿者 webmaster : 09:59
2010年09月03日
今こそ、役に立つ 日本料理版 冠婚葬祭便利帳! 編集担当者より♪
『日本料理 祝儀 不祝儀ハンドブック』
著者:長島 博
発行年月:2010年9月3日
判型:A5 頁数:168頁
今回初めて、水引の結び方や和紙飾りの折り方を学びました。
普段まったくやらないことなので理解するまでは大変でしたが、
自分で実際に何度かやってみると、なるほどとその基本構造が納得でき、
きれいに作るコツも少しずつわかってきて、けっこう病みつきになります。
今では不器用な私でも、淡路結びや、雄蝶、
雌蝶飾りといった銚子飾りまでお手のものです(笑)。
[結びの基本]
◎淡路結び
祝儀袋や箸包みなどに
水引を掛けて結んでいく方法。
[酒器飾り]
◎雄蝶飾り
婚礼の儀式で銚子や提下、燗鍋などの
酒器に付ける和紙の飾り。
[箸包み]
◎箸包み
開口部を着物の襟合わせのように斜めに重ね、
紅色の紙を見せた華やかさのある箸包み。
典型的な祝箸用の「折形」。
[熨斗]
◎熨斗包み
贈答品などを、丁寧に差し上げるいう気持ちを込めて
和紙で包む際の「折形」の一つ。
自分で和紙と水引を買ってきて、熨斗袋を作り、
水引きを掛けてお祝を贈る、あるいは、
お屠蘇飾りを毎年自分で作ってみる、
なかなかステキなことだと思いませんか。
しかも、そういう知識は、
料理の現場で本当に役に立つことばかりです。
椀物のあしらいや、お祝の口取、器使い、
和紙や水引を使った演出、その他たくさんの場面で。
約束事の基本を知っていれば、
自分なりの応用も自信をもってできるようになります。
表現の幅もぐっと広がって、新たな世界が開けることでしょう。
外国人のお客さまにも、また違った意味で喜んでもらえると思います。
投稿者 webmaster : 13:34