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2010年11月22日
料理本のソムリエ [ vo.12 ]
【 vol.12 】
五色の酒とレコードコンサート
しつこいようですが、まだまだカフェーの話が続きますよ。
前に説明したプランタンが明治44(1911)年4月、パウリスタが12月開業ですが、そのちょうど間の8月に開業したのが精養軒経営の「カフェー・ライオン」です。都市の女性の勤め先といえば電話の交換手か洋品店の店員か、といった時代ですから、女学校出の才女たちがこぞってこの店の女給さんとなり、人気を集めました。ところが震災の後に斜め向かいにライバル店が出店。獅子と虎の対決と噂されます。この店こそが永井荷風が通った「カフェー・タイガー」でして、こちらは昭和のカフェーブームを牽引する有名店となります(ここのナンバーワンが魯山人の器を使ったことで知られる「おけい寿司」を開くお慶さんです)。一方ライオンは昭和6(1931)年に大日本麦酒に経営に代わり、ビアホールとなりました。その地で今も営業を続けるのが「銀座ライオン5丁目店」というわけです。
プランタン、パウリスタ、ライオンは大正時代のカフェーの三羽烏ですが、それに一歩先駆ける先輩格として必ず語られるのが「メイゾン鴻ノ巣」です(表記は一定しておらず、鴻之巣、鴻乃巣とも書きます)。なにしろ前回紹介した『珈琲飲みある記』によると、松山省三がプランタンを開いた動機は鴻ノ巣のコーヒーのうまさにあったそうですから。
ただし、この店をはたしてカフェーとして紹介していいものか、ちょっと迷います。詩人の木下杢太郎によると主人はキャバレーやカフェーといわれるのは嫌っていたとのことですし、久保田万太郎は料理3品にパンと果物、コーヒーがついて50銭だったと語っておりますし。当初日本橋小網町の鎧橋のたもとに店を構えていたこともあって、その立地がセーヌ川の左岸にあった本場パリのカフェを連想させ、フランス文化にあこがれた文学青年たちが通ったようです。木原店、京橋と二度の移転を経た後はさらに本格的なフランス料理店となりまして、多くの文化人の集まりに使われました。たとえば芥川龍之介は『羅生門』の出版記念パーティを鴻ノ巣で行なっており、その際に店の主人に「本是山中人」と揮毫したことが知られております。
鴻ノ巣はコーヒー史を扱う本だけでなく、カクテル史の文脈の中でも登場します。なにしろ日本バーテンダー協会会長の長谷川幸保氏が銀座に開いたバーの名前は、この店にあやかってか、「鴻の巣」(後に鴻之巣と改称。現在は閉店)でありました。
鴻ノ巣ではパンチやカクテルが名物で、中でも「五色の酒」で知られていました。これは色違いのリキュールを混ざらないようにそおっと注いで層状にしたもの。ステアしたり、シェイクしたりして作るカクテルと対極にあります。なお大正浪漫ただよう「五色の酒」とは日本での呼び名でして「プース・カフェ」というのがオリジナル名称。フランス語でコーヒーを押しやるもの、という意味です。つまるところ食後酒ですね。
はたしてどんなレシピなのでしょう。幸い小社はカクテル関連の本はたくさん出版しており、資料には事欠きませんぞ。
『新版バーテンダーズマニュアル』ではグレナデンシロップ、メロンリキュール、バイオレット、ホワイトペパーミント、ブルーキュラソー、ブランデーを6分の1ずつ。これでは6色の酒ですが、7色使った「レインボー」という仲間もあります。逆に『バー・ラジオのカクテルブック』ではカルア、クレーム・ド・バイオレット、ペパーミント、ブルーキュラソーを4分の1ずつの4色。『カクテルレシピ1380』はグレナデン・シロップ、マラスキーノ、クレーム・ド・ミント、クレーム・ド・バイオレット、イエローシャルトリューズ、ブランデーを6分の1ずつ。なおこの本には「プース・カフェ・アメリカン」というカクテルのレシピもありまして、こちらはマラスキーノ、オレンジキュラソー、グリーンシャルトリューズ、アニゼット、ブランデーで作るのですが、仕上げにブランデーに火をつけます。『カクテルホントのうんちく話』によると、プース・カフェはナポレオン時代に流行ったシャス・カフェに端を発し、19世紀半ば過ぎにはいろいろな種類が生まれたそうで、最後にブランデーを浮かべるのが暗黙の了解だったとか。
要は比重の重い順に注いで層にすればよいわけで、瓶から直接注がずにバースプーンで静かに移すのがこつ。かつてかなり流行したようで、リキュールグラスよりも細い「プース・カフェグラス」という専用グラスすらありました。カフェー・プランタンでも提供しておりまして、松山省三の息子である河原崎國太郎は自伝『女形芸談』中で、実家のバーテンダーが作る五色の酒を心をときめかせて見ていたと子供時代の思い出を語っています。
さて鴻ノ巣名物五色の酒ですが、これは日本文学史上、有名な事件のきっかけとなります。前回も登場しました平塚らいてう主宰の女性雑誌『青鞜』がその舞台です。明治45(1912)年6月。まだ10代だった青鞜社員の尾竹紅吉が、単身鴻ノ巣に雑誌広告を取りに行きました折に、主人に五色の酒を飲ませてもらいます。鴻ノ巣は『奇蹟』『ザムボワ』『スバル』など各種文芸雑誌に広告を入れておりまして(スバルにはプランタンの開店あいさつと並んで広告が入っております)、文学界のよきパトロンでもあったのです。
紅吉が青いストローで虹のような酒を飲む(実際は彼女は飲まなかったらしいのですが、背伸びしたい年頃だったようで)感動を誌上に寄せると、青鞜の活動を疎ましく思っていた保守派の格好の攻撃材料に。同時期に紅吉たちが吉原を見学した「吉原登楼事件」と合せて「女だてらに白昼堂々と酒を飲む」「女文士の吉原遊び」と揶揄し、面白おかしく新聞ネタにされてしまいます。責任を感じて青鞜を辞めた彼女は、のちに陶芸家の富本憲吉の妻となります。
ちなみに大正7(1918)年に出版された『料理小説集』の著者である吉田静代は、紅吉に興味をもって青鞜の支援会員となり、大正2(1913)年10月にメイゾン鴻ノ巣で開かれた仲間の上京歓迎会に出席しております。彼女の自伝『ひとつの流れ』によりますと、歓迎会では騒動の発端になった五色の酒も飲んだとか。くだらぬ新聞中傷などに負けないぞ、という意思表示だったのでしょうか。
この『料理小説集』は小説中の料理が登場するシーンをピックアップし、その料理のレシピを紹介したもの。今でも雑誌などで人気の企画の元祖ですね。もっとも彼女自身も青鞜に作品を発表しているくらいですから、選ぶ小説が実に渋い。吉田静代は料理研究家の宇野弥太郎の原稿(恐らく「西洋料理法大全」)をまとめたり、宇野が料理長を務めた料亭の帳場を手伝ったこともあり、まさに適任者でした。料理小説集は1995年に復刻されたのですが、小規模出版で入手は困難です。もっとも97年には構成を変え、年譜を省略した編集版が『折々の料理』のタイトルで再び世に出されております(こちらはなぜか表紙に魯山人の器の写真が使われております)。
ところでメイゾン鴻ノ巣が料飲文化に貢献したのはカクテルだけではありません。ロシアからサモワールを輸入して、知り合いに送っていることが与謝野寛・晶子夫妻宛の手紙から判明しています。また鴻ノ巣は支店として、京橋ですっぽん料理店「○や(まるや)」を始めておりまして、若き日の魯山人が料理を指導したというエピソードが白崎秀雄の『北大路魯山人』に出て参ります。
下岡蓮杖ばりにアクティブで、軟派な文士とも硬派なフェミニストたちとも分け隔てなく付き合う鴻巣主人。彼はいったい何者なのか。その謎は『祖父駒蔵とメイゾン鴻之巣』で、明らかにされております。本書はタイトルの文のほか、著者の奧田万里氏の日常をスケッチしたエッセイなど22編を集めた書で料理本ではありませんが、魯山人が彫ったメイゾン鴻ノ巣の看板がわかる貴重な外観写真を見ることができます。
なお、駒蔵は若い頃にすっぽん料理店で修業したと語っていたとか。新聞広告を調べてみると「○や」の開業は美食倶楽部どころか、魯山人の骨董店「大雅堂」の開業よりも先ですし、その開業以前からメイゾン鴻ノ巣では毎週金曜日にすっぽん料理を提供しています。となると魯山人が指導したというのは、かなり割り引いて考えたほうがよさそうです。むしろ逆なのかもしれませんぞ。
今や忘れられた奧田駒蔵(なにしろ白崎の本には奧田慶太郎という誤った名前で登場します)の事蹟について、10月に開かれた「食生活史懇話会」では、奧田万里氏と音楽史研究者の奧田恵二氏のご夫妻に講演していただきました。その席では鴻ノ巣で開かれた蓄音機コンサートの曲も披露されたのですが、これまたバッハやシューベルトといった古典ではなく、ストラヴィンスキーやリヒャルト・シュトラウスなど当時最新の音楽だったとのことです。音楽愛好家にとっては、同時代の希少な音源を最新オーディオ機材で聞けるめったにない機会。かつてのジャズ喫茶のような役目を果たしたのでしょう。
それにしても駒蔵のマルチタレントぶりと交際範囲の広さには驚かされます。関根正二ら若い洋画家の作品を買って彼らの活動を支えただけでなく、みずからも文人風の絵をよくして個展を開き、店で発行した雑誌の表紙も自分で描いております。東京の蒲田には自分で設計したアトリエを建て、御茶ノ水の文化学院の創立メンバーとしてフランス料理を教え、学校の表札も彼の字でした。映画の「寒椿」(南野陽子主演ではありませんよ。水谷八重子のデビュー作。青鞜社員だった林千歳も登場します)に、モブキャラクターとして出演したという伝承もあります。震災後の復興の無理がたたって若くして亡くならなければ、後世にもっと名を残したことでしょう。
投稿者 webmaster : 18:08
2010年11月15日
幾多の味を表現!「日本料理 味つけ便利帳」編集担当者より♪
『日本料理 味つけ便利帳』
著者:野崎洋光
発行年月:2010年11月25日
判型:四六 頁数:324頁
野崎さんは、超忙しい。
野崎さんはこの本の著者で、
「分とく山」という都内にある人気の日本料理店の料理長。
毎日あちこちを飛び回っているのに、
夜は必ず店のカウンターに立ちます。
お国訛りがちょっと残っていて、
どんなに忙しくてもいつもにこにこ温かく、
来店客を迎えます。
今回の撮影はいつも午後2時から開始。
でも野崎さんは昼からの料理教室を終えたばかり。
食事をとる暇もなく、すぐにカウンターに入って撮影開始です。
「あっ、これパンにも合うよ。ちょっとパンを買ってきて」と野崎さん、
店のスタッフに声をかけます。
なるほどこの“ナッツ和え衣”すごくパンに合う!
“胡桃和え衣” “絹さや胡桃味噌”もいけるじゃない?
日本料理の和え衣なのにパンに合うなんて!
いつもうちでつくってるキンピラや鯖の味噌煮。
どうして野崎さんがつくるとこんなにおいしいんだろう。
“彩きんぴら”は本当にゴボウがおいしく仕上がります。
きちんと火が通っているんだけど、なぜかシャキシャキ。
「それは酒を使うからですよ。水を使っちゃだめ。
水は煮汁が詰まるまでに時間がかかっちゃうでしょ。
ゴボウの繊維がやわらかくなりすぎてしまいます。
その点お酒を使えば早く煮詰まるんです」
なるほど、で、シャキシャキなのか。
“鯖の味噌煮”もとてもジューシー。
日頃鯖の味噌煮があまり好きじゃない
カメラマンのエビちゃんもびっくり!
こんなにおいしい鯖の味噌煮は初めて食べたって!
「サバは火を通しすぎてはいけないんですよ。
サバに限らず魚の切り身は10分以下で煮てください。
それ以上煮ても味はしみません。肉がぱさつくだけ」
おどろいたのが、“若菜あん”をかけた“蒸し鶏”。
とってもやわらかい。
野崎さん、この鶏、由緒正しい鶏なのですか?
それとも魔法でもかけたのかしら?
「いえいえ、普通のブロイラーですよ。低温で蒸してるんです。
蒸す温度が高すぎると肉が締まってしまいます。
温度の調整が大事なんです」
お肉って高温で加熱するものだと思っていたけど、間違っていたんですね。
私のお気に入りナンバーワン。
忘れちゃいけないのは、“カレー和え衣”と“磯チーズ和え衣”。
子供も大人も大好きだと思います。
どんな味って? うーん言葉にできません。
ぜひぜひお試しを。
和え衣さえ用意すれば、こんなに簡単にできるんです。
さて、いかがでしたか?
この料理にはこれを使って、といった定番の味もいいものですが、
たまには頭を柔軟にして本書を使ってみてください。
同じ素材や料理でも、味つけを変えるだけで、
別の料理に生まれ変わります。
「次の世代に新しい味を伝えたい」
そんな思いで野崎さんはこの本をつくってくれました。
投稿者 webmaster : 18:13
2010年11月10日
新版、さらに役立つ内容に!! 編集担当者より♪
『新版 プロのためのわかりやすい中国料理』
著者:松本 秀夫 著、+ 辻調理師専門学校中国料理研究室
発行年月:2010年11月13日
判型:B5 頁数:352頁
旧版の刊行は1998年ですが、内容が古びる本ではありません。
今回はその旧版に加筆、訂正をし、
より充実した内容としたものです。
料理の作り方にはほとんど変更がありませんが、
さすが辻調理師専門学校の本らしく、
詳細、かつ正確なレシピで、完成度の高いものです。
子豚の丸焼きなどの貴重な料理のプロセスが掲載されているのも、
弊社ではこの本だけ。
高価な食材も惜しみなく使用し、
料理を制作する先生方も力の入った撮影でしたので、
新版としてこの本を再び送り出すことができたことを、
とてもうれしく思います。
投稿者 webmaster : 17:41
2010年11月08日
料理本のソムリエ [ vo.11 ]
【 vol.11 】
2軒の日本最初の喫茶店
HPにアップされた前回の文章を通して読み返したところ、慄然といたしました。これでは「いまどきのカフェには暗いくせに、キャバクラについては営業許可についてまで詳しいおっさん」と思われかねない…。違いますからね。知っているのはカフェーのほうです。その証拠に今回も引き続きカフェーの本の話を。
日本のカフェーの第1号は、「カフェー・プランタン」であることは前回述べましたが、これは「カフェーと名乗った最初の店」という意味でして、「日本最初の喫茶店」となるとちょっと様子が違います。これはなかなか厄介な問題でして、明治の新聞や広告ビラにより、当時コーヒーを提供していた店がいくつか確認されておりますが、どれくらいの期間営業していたか、どんな業態だったかわからないものばかり。
たとえば明治9(1876)年4月7日付けの東京絵入新聞に、画家にして写真家の下岡蓮杖が浅草の奥山に「御安見所(またの名を油絵茶屋もしくはコーヒー茶屋)」を開いたという記事が載っております。偉人の肖像画や函館戦争、台湾出兵のパノラマ絵を飾り、入場料は1銭5厘でもれなくコーヒーつきという趣向。これは当時珍しかった油絵の見世物小屋でして、喫茶店のプロトタイプというにはちょっと無理がありますね。なお、この記事中にはコーヒーとはいかなる飲み物なのか、一切説明がありません。喫茶店はまだ存在しなくとも、当時急速に増えていた西洋料理店ではコーヒーも提供しており、認知が進んでいたのでしょうか。
ちなみに『下岡蓮杖写真集』の解説によると彼はかなりのアイデアマンだがやや大風呂敷の気がありまして、パノラマ絵に石版印刷、乗合い馬車に人力車、牛乳販売にガス灯設置を日本で初めて手がけたのは自分だと語っていたそうです。この写真集は料理本ではありませんが、蕎麦を食べる女性たち(せいろで1人2枚ずつです)や、桶にのせたまな板で魚をおろす女性、天秤棒を担いだ豆腐売りや魚売り、金沢八景の料亭「千代本」といった明治初期に写された貴重な写真が掲載されておりまして、食文化的にもちょっと興味深いです。それからついでにトリビアですが、「星岡茶寮」の共同経営者だった中村竹四郎は下岡の最後の弟子であります。
それでは開業日時が確認できるうえ、明らかに欧州のカフェーを目指していた店はどこかというと、明治21(1888)年4月13日に上野の西黒門町に開店した「可否茶館」です。オーナーの名前は鄭永慶。彼は江戸時代の初めに日本に亡命した鄭成功の末裔でして、中国語通訳として幕府に仕えた家系のために中国風の名乗りですが、れっきとした日本人です。
可否茶館については版画家にして明治文化研究家の奥山儀八郎氏が再評価し、1940年には可否茶館が開業時に発行した小冊子をわざわざ復刻しております。この小冊子は可否茶館の開業広告のほか、世界のカフェ事情を紹介したもの。この復刻版を入手した内田百けん(黒澤明の映画「まあだだよ」の主人公ですね)が、明治製菓別館の喫茶室でいにしえの可否茶館に思いをはせる小文が『御馳走帖』に収録されています。御馳走帖は言わずとしれた料理エッセイの名作の1つですね。過去に書いた料理関係の文を集めて、戦後間もない1946年9月に発行した本で、活字にも、食べ物にも飢えていた時代にぴたりとはまって大評判をとりました。二度の新訂版が出ているうえに、今は文庫で読むことができます。
さて、戦後奥山氏は中国人説などの誤った鄭永慶像を正すべく、1957年に『珈琲遍歴』を刊行し、詳細を紹介しました(これは1200部限定出版だったのですが、のちに旭屋出版から2度復刻されました)。翌58年には東京都喫茶業環境衛生同業組合と東京中日新聞の共催で、可否茶館開設70周年記念・喫茶まつりが開かれたと、62年小社刊行の『珈琲飲みある記』にあります。本書の著者、寺下辰夫氏は鄭家と縁戚関係のある川口家の出身。奥山氏とはコーヒー研究仲間であります。
寺下氏は1963年4月号の『月刊食堂』でも可否茶館について詳しく述べておりまして、それによると、鄭永慶は上流階級のサロンである鹿鳴館に対抗し、庶民階級のための喫茶室であり、知識や親睦の“共通の広場”を作ろうとしたのが開業の動機だったそうです。
たかが喫茶店にずいぶん大仰な感じもしますが、鄭は明治7(1873)年にアメリカのエール大学に留学しており、帰国後は岡山の師範学校の教頭職に就いた経験もあります。留学時代に知ったコーヒーショップやカフェの文化を日本に紹介しようというのが、鄭の志でした。そのため可否茶館はただコーヒーを提供するだけでなく、新聞や雑誌の読める閲覧室や化粧室、フランスのカフェで流行っていたビリヤードも備えておりました。
しかし、鄭の夢は当時においては早すぎました。店を閉じた鄭は37歳でシアトルで没するのですが、失意の渡航と鄭の眠る地については、いなほ書房の星田宏司氏が『日本最初の喫茶店―可否茶館の歴史』でつまびらかにされておりますので、そちらをご覧ください。巻末には鄭が配った例の小冊子も採録しておりまして、彼の理想としたところがわかります。
なお寺下氏は先の『月刊食堂』の記事中で、可否茶館の跡地に記念碑を建てたいとも述べておりました。
それから40年。星田氏ら鄭永慶の生涯に魅かれた人たち、鄭一族の子孫会、日本コーヒー文化学会や珈琲業界といった数多くの有志の協力によって、2008年4月に記念碑が建てられました。実はこの場所は、柴田書店の入っているビルから歩いて1分の距離。SANYO東京ビルの横にありまして、大通り道を挟んではるか先には上野松坂屋が望めます。
松坂屋が可否茶館の開業時にはまだ和風の呉服屋だったことを考えると、その先進性がうかがえます。
さて可否茶館から経ること20余年。明治44(1911)年12月12日に銀座に開店したのが「カフェー・パウリスタ」です。同店は日東珈琲の前身であり、創業の地には1970年に同名の喫茶店が復活し、今も営業を続けています。パウリスタの歴史については、店で配られているパンフレットからもうかがえますが、ここは一つ、日東珈琲元社長の長谷川泰三氏による『日本で最初の喫茶店「ブラジル移民の父」がはじめたカフェーパウリスタ物語』という長ーいタイトルの本で、さらに深く味わってほしいものです。
おっと、またまた「日本最初の喫茶店」が登場して参りましたが、コーヒーを主力商品とした純粋な「喫茶店」という業態の第一号という意味では、この店もまた日本初を冠する資格があるでしょう。パウリスタとはサンパウロっ子という意味のポルトガル語。ブラジル移民の父と呼ばれる水野龍は、その功績からサンパウロ州政府から無償でコーヒー豆の提供を受けました。ただし、日本にブラジルコーヒーを紹介、普及させるという条件つき。そのために開いた店がパウリスタだったのです。
なにしろ無償ですから安く提供できました。プランタンが文化人が集まるちょっと敷居の高い店だったのに対し、学生でも入れる金額と雰囲気でした。普通のカフェーでは女給さんがサービスするのに対し、パウリスタでは海軍士官風の制服を着た少年たちが給仕した点も大きく異なります。どうも硬派なのが社風のようです。商品のキャッチフレーズからして「鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱きコーヒー」ですし。
もっともパウリスタには瀟洒な女性用ルームもありました。「元始、女性は実に太陽であった」で有名な平塚らいてう(こちらも映画になりましたね)の女性解放誌『青鞜』のメンバーたちが、愛用していたそうです。そのほか多くの文学者たちがパウリスタを訪れ、同店を作品の中で描写しておりますが、詳しくは長谷川氏の著作で。
コーヒーを普及させるのが設立目的ですから多店展開にも熱心で、支店があったと推測される場所は全国26カ所におよぶそうです。大正末には関東大震災とサンパウロ州のコーヒー無償期間が切れたダブルパンチで、これらの店舗を手放してしまいますが、日本各地にコーヒー文化の芽を広めたのは間違いありません。水野龍は震災の翌年に65歳でブラジルに渡り、大戦中の帰国を挟みますが、92歳で彼の地で亡くなっております。
こうしてみると喫茶店黎明期の創業者たちは、ずいぶんと情熱家で、社会貢献に熱心です。時代が違うといえばそれまでですが、株価に一喜一憂し、テレビ出演に熱を上げるような昨今の飲食店経営者にちょっと煎じて飲ませてやりたい気がします。
投稿者 webmaster : 11:07
2010年11月01日
ワイン、酒がおいしい nobuカジュアル
『ワイン、酒がおいしい nobuカジュアル』
著者:松久信幸
発行年月:2010年11月2日
判型:B5変 頁数:144頁
優れた腕の料理人に共通する要素として、
徹底して素材にこだわるという点が挙げられる。
食材『鮒寿司』の入荷がないと分かれば、
著者は何の迷いもなく「新幹線は動いているんだろう!?」と一喝する。
そんな光景が毎回のように見られた取材現場は、
心地よい緊張感に溢れていた。
しかし、一方で常に料理・調理を愉しむ姿勢がうかがわれ、
ピリピリしながらも、和やかなチームプレイが展開していたものだ。
若い料理人に『親父さん』と慕われる、著者ならではの独自の料理世界がある。
こうした調理を愉しむ姿勢は、そのままテーブル席の団らんにつながり、
店内の雰囲気を創り出している。
繁盛店は、料理の視覚効果3割、味や雰囲気づくりが7割という説は、
どうやら本当らしいと感じさせられる。
店でメニューブックを開いても迷うばかりだが、
スタッフに問えば、ワインや日本酒に合う料理を的確にセレクトしてもらえるはずだ。
あの皿この皿といろいろな味に惑うのも『NOBU TOKYO』の愉しみ方のひとつであり、
それがnobu styleなのだ。
投稿者 webmaster : 13:24