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2011年07月19日

料理本のソムリエ [ vol.25 ]

【 vol.25】
島崎藤村が魯山人をモデルに

小説を書いたわけ

 (前回の続き) おや、魯山人のことはご存じなのかい? 「美食倶楽部」や「星岡茶寮」も? 意外だねえ。
美食倶楽部は魯山人と中村竹四郎が共同経営していた会員制の店。予約客に骨董店の2階で販売用の器を使って料理を提供した、いわば賞味会だね。「星岡茶寮」は赤坂の日枝神社の隣にあった東京一高価なので評判の料亭。この2つの店を手掛ける間の時期、震災直後の大正12年11月から翌年10月に区画整理で日比谷に移転するまでの1年間弱、魯山人らが井上太四郎と共同で開いていた料理店が芝公園の「花の茶屋」っていうわけです。

そもそもね、せいぜい1、2卓の賞味会の次に手掛けたのが東京一の料亭では、店格が違いすぎやしないかい? 素人がいきなり料亭を切り盛りできるもんかねえ? 器目当ての骨董好きなら、想像以上においしい料理の登場に意表をつかれたり喜んだりしたろうさ。でも料亭では料理がよくて当たり前だし、サービスの質だって求められる。什器が無名時代の魯山人の作品では商品力不足のようにも思える。世の魯山人本はそうした疑問を「魯山人が天才だったから」の一言で片付けているけど、料理店の経営ってぇもんを甘くみちゃいませんかね?

shinbunkoukoku.jpg実際にはホップの美食倶楽部とジャンプの星岡茶寮の間に、ちゃあんとステップ時代の花の茶屋があったというのが真相なんですなあ。骨董を使わず、会員制でもなく、一品料理も出す料理店を立派に切り盛りできたことで、自分の料理やオペレーションに自信を得たんだろうねえ。ちなみに花の茶屋では星岡茶寮に先駆けて、魯山人が手掛けた器を使っていたんですよ。といっても魯山人が自前の窯を持つ前の話で、京都や山代の窯に委託して焼いてもらったものだから、本人としてはまだ満足できなかったかもしれないけれど。
「なにしろ、この震災の後ですから、食器もまだ思うようなのが手に入りません。これで器が好いと、同じものでもお客さんがうまく味って下さる。今はそれが利きません。そこへ出すものは、何でも正味の料理だけなんですからね。料理人は骨が折れますよ」。これは『食堂』の中の広瀬さんのセリフだけど、いかにも魯山人が言いそうだよね。

さらに詳しく言うと星岡茶寮の開業当初は5部屋きりで花の茶屋の倍くらいの規模しかなくってね。昭和6年に新館を増築してさらに倍の収容が可能になった。さらに旧館の改築を経て、昭和10年にパンフレットが作られたんだけど、その情報をもとに店規模やスタッフ数が紹介されるもんだから、いきなり大料亭を始めたような印象を受けちゃう。いくら魯山人でも物事には順序ってもんがあるんですよ。

bentenike.jpgなぜ、この店が「池の茶屋」のモデルって断言できるのかって? だって場所がおんなじなんだもの。花の茶屋があったのは芝公園18号地―1で、芝公園弁天池の道を挟んだ向かい側。今でこそ、プリンスホテルの下の小さなスペースだけど、当時の弁天池あたりは今よりもずっと広くて桜や紅葉や蓮で知られた行楽地。赤羽橋の市電の停車場に近くて、目と鼻の先は「紅葉館」や「三縁亭」といった有名店。今の人には東京タワーやとうふ屋うかいの近くっていったほうがわかるかな? なかなかの好立地だったようですよ。

「震災の名残はまだ芝の公園あたりにも深かった。そこここの樹蔭には、不幸な避難者の仮小屋も取払われずにある。公園の蓮池を前に、桜やアカシヤが影を落している静かな一隅が、お三輪の目ざして行ったところだ。葦簾(よしず)で囲った休茶屋の横手には、人目をひくような新しい食堂らしい旗も出ている。それには、池に近い位置に因んで「池の茶屋」とした文字もあらわしてある」
 この小説の連載打ち合わせ時の仮タイトルは「池の食堂」だったことからわかるように、弁天池近くの料理店という設定は初めから藤村の頭にあったんでしょうなあ。もちろん広瀬先生こと魯山人が登場するのもね。
「庖丁をとぐ音、煮物揚物の用意をする音はお三輪の周囲に起って、震災後らしい復興の気分がその料理場に漲り溢れた。こうなると、何と言っても広瀬さんの天下だ。そこは新七と、広瀬さんと、お力夫婦の寄合世帯で、互いに力を持寄っての食堂で、誰が主人でもなければ、誰が使われるものでもなかった。唯、実力あるものが支配した。そういう広瀬さんも、以前小竹の家に身を寄せていた時分とは違い、今は友達同志として経営するこの食堂に遠慮は反って無用とあって、つい忙しい時になると、《オイ、君》と新七を呼び捨てだ。新七はそれを聞いても、すこしも嫌な顔をしなかった。どこまでもこの友達の女房役として、共に事に当ろうとしていた」

どうだい、広瀬さんたらいかにも魯山人を髣髴とさせる性格だし、新七は中村竹四郎ばりにサポートに徹してる。「あの先生には泥だらけな護謨(ゴム)靴でも何でもはいて、魚河岸を馳け廻って来るような野蛮なところがあります」と新七が語っているのも、これから世に打って出ようとしていた時期の魯山人らしい。星岡茶寮を開く前は魯山人もちゃんと魚河岸に通っていたんだねえ。もっとも京橋育ちという設定のお三輪さんにとっては魚河岸ってえのは日本橋にあるのが当たり前で、「あの魚河岸ですら最早東京の真中にはなくて、広瀬さんはじめ池の茶屋の人達が月島の方へ毎朝の魚の買出しに出掛けるとは、お三輪には信じられもしなかった」なんてショックを受けているけれど。

ほかにも池の茶屋には支那風の赤い毛氈が敷かれていると描かれているけど、これは白崎秀雄の伝記『北大路魯山人』でも紹介されているし、料理の献立が支那風の桃色の用箋に書かれてたっていうのは、初期の星岡茶寮と同じ手法。どこをどう見ても花の茶屋と魯山人をモデルにしたとしか思えませんよ。

ichi_tashiro.jpg小説だから、どこまで事実通りかわかるもんかい、だって? そりゃそうだ。現実の花の茶屋は池の茶屋と違って震災前から開いていたし、魯山人が協力する計画も夏には始まっていたからねえ。美食倶楽部で女中として働いていた井上イチと、夫の太四郎が花の茶屋を開いたのは大正11年10月のことで、店は借りていたらしい。芝公園の敷地は東京市の所有だけれど、公園の管理費を稼ぎ出すために一部の区画は民間に貸し出されていて、芝公園18号地―1の使用権は植松太吉って人が持っていた。ところが大正12年7月に中村竹四郎が使用権の譲渡を、8月には水道管の引き込みを申請している。市の土地では何をするにも許可がいるので、借家時代の花の茶屋は満足いく店作りはできなかったんだろうね。そこで井上夫婦は、中村・魯山人コンビの財力とセンスを借りてリニューアルしようと考えたっていうのがあたしの推理。のちに星岡料理の料理主任となる中島貞治郎、「新宿中嶋」の中島貞治さんのお祖父さんは、この頃に魯山人の下に加わっていて、7月22日に鎌倉で開かれた朝飯会を手伝っている。露天に白いクロスをかけたテーブルを並べて開いたこの破天荒な催しは、たぶん花の茶屋リニューアルオープンの宣伝も兼ねていたんでしょうね。

芝公園の花の茶屋が井上太四郎、魯山人、中村竹四郎のトロイカ体制の店だったことは、滝波善雅からの伝聞として歴史学者の服部之総も書き留めているのに(『服部之総全集24巻』)、魯山人の経歴では井上どころか花の茶屋自体も無視、省略されることのほうが多いんだよねえ。美食倶楽部の営業期間はたった2年だったことを考えると、こちらも負けないくらい重要な店だと思うんですけどねえ。

白崎秀雄にしてもね、花の茶屋の内装は支那風の趣向が凝らされていたことに気づいていない。そもそも彼の著作の『北大路魯山人』でも、井上太四郎や花の茶屋について詳しく書いてあるのは昭和60年に出した改訂新版のほう。昭和46年の旧版では、ちょっとしか触れられていないうえに井上太四郎の経歴がまちがってる。これは旧版執筆時には、少年時代から魯山人の料理を手伝っていた武山一太を取材していなかったから。だから旧版しか知らない読者は花の茶屋って聞いてもぴんとこないかもね。

藤村が『食堂』を連載したのは大正から昭和に替わる年の暮れ。星岡茶寮の開店後だから、こちらをモデルにしてもよかった。でもあえて花の茶屋のほうを取り上げたのは、それが震災直後の急造りの小さな店だったにも関わらず工夫にあふれていて、新しい時代の足音を予感させていたからじゃないかなあ。武山一太の証言によると、土間には京瓦が敷かれていて、緋毛氈を敷いた床に漆塗りのテーブル、夜は百匁ロウソクをともした手燭を点々と置いたそうですよ。ちょっとダイニング系の店の演出みたい。ちなみに、勘違いしている人がよくいるけど、星岡茶寮は魯山人が始めたんじゃなくて、明治時代に鹿鳴館の向こうを張って建てられた高級料亭。漱石も鴎外も利用していたんですからね。芝公園の花の茶屋の閉店後、魯山人らは東京っ子なら誰でも知っている施設とブランドをそのまま借りて、次の事業を始めたってわけ。これじゃあ明治時代への回帰であって、復興と新時代の象徴として取り上げるのにはちょっとふさわしくないよね。

ただ藤村は魯山人という人物そのものにも興味があったのは間違いない。魯山人の書の腕も高く評価していたみたい。加藤静子に魯山人の作品を送ったはいいが、可哀想に「折角でございましたが、北大路氏の書は、自分としては好きな書ではありませんでした」なんてぴしゃりと言われてる。それにもめげずに昭和3年に彼女と星岡茶寮で結婚式を挙げるんだから、藤村の魯山人びいきはかなりのもんだったんでしょうなあ。志賀直哉が星岡茶寮で食事をして、日記に一言「不味」って書いているのとはえらい違いだね。
 いっぽう永井荷風も星岡茶寮で結婚式を挙げているんだけどね、これは魯山人が借りる前の話だから関係ない。さっき初期の星岡茶寮では支那風の紙に献立を書いてよこしたって言ったけど、これは荷風が『断腸亭日乗』に記録していることで、彼が魯山人の料理を食べたのはまちがいない。でもね、たぶん気に入らなかったんだと思いますよ。お三輪さん同様、江戸の空気を愛した荷風には魯山人流は受け入れられなかったんじゃないかなあ。慎重な荷風は志賀直哉と違って日記にそれとは記していないけど、魯山人嫌いの状況証拠が山とあるんだよねえ…って、おい、どうもさっきから静かだと思ったら、聞いてるの?
 

rosanjinnosyo.jpg長くって退屈だし、検索してもそんな話は出てこないから信じられないって? そりゃそうですよ。ネットやブログに真実があふれていると思ったら大間違い。世間の人はね、漫画やテレビで描かれている魯山人像で充分満足しているし、魯山人研究家なんて顔をしている人たちもね、実際の料理や料理店の歴史なんて、てんで無関心なんだから。ほんとのことを知りたけりゃ、ちゃんと当時の資料を読まなくちゃだめですよ。ほら、『味冴』には「今から五年以前の十月、…(略)…弁天池畔に北大路魯卿先生を名付親として小(ささ)やかな茶店を開きました」って書いてあるし、口絵には魯山人の書も収録されている。白崎秀雄によると、井上夫婦は魯山人に庇を貸して母屋を取られた形になったために怒り出して紛糾したと書いているけど、こうしてみると喧嘩別れで絶交っていうわけでもなさそうだね。当時の人は日比谷に移った花の茶屋は星岡茶寮の系列店か何かと思っていたふしがあるし、花の茶屋は魯山人流の前菜(vol.5参照)を出していたからねえ。

え、当時の資料を読みたいから、2冊あるなら1冊譲ってくれって? なんだい魯山人の書と聞いたら急に目の色を変えて。嫌ですよだ。ええ、ええ、ケチですとも。




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投稿者 webmaster : 2011年07月19日 14:57