« 2012年02月 | TOPページへ | 2012年04月 »
2012年03月29日
注目の日本ワイン、おいしい出会い組み合わせを楽しむ♪
『日本ワインと和つまみ』
著書:岩倉久恵、ワイン監修:鹿取みゆき
発行年月:2012年3月30日
判型:B5変 頁数:120頁
ワインのつまみはチーズだけだと思っていませんか?
いえいえ、日本ワインならチーズだけではないんですよ
(もちろんチーズもおいしいですが)。
おひたしや生魚、冷奴や漬け物、鍋だっていけちゃいます。
つまりは、普段のおつまみと一緒に楽しめるのが
日本ワインのいいところなんですね。
そんな手軽な和つまみと日本ワインを組み合わせてみよう!
というのが企画のスタートでした。
レシピをお願いしたのは、東京・目黒の「キッチン・セロ」や
渋谷「ボングー・ノウ」の女将としておなじみの、岩倉久恵さん。
いち早くお店で日本ワインを取り扱ってきたこともあり、
その豊富なノウハウと、引き出しの多さにはただただ圧倒されました。
岩倉さんの手にかかれば、おひたしや冷奴、刺身の残りでさえも
アイデア溢れる、センスのいいメニューに大変身です。
また、味つけを調味料だけに頼らず、
素材の風味、持ち味を引き出したレシピは一見の価値ありです。
以下はその一例です。
◎「とろとろ玉ねぎのコンソメ風味」
玉ねぎは丸ごとレンジでチン!
コンソメキューブを湯に溶いて合わせればでき上がり。
玉ねぎの甘みとコンソメの旨みが
ワインと溶け合います。
◎「よせ豆腐 万能ねぎとねぎ醤油」
万能ねぎと醤油で「ねぎ醤油」をつくり、
豆腐につけていただきます。
ねぎのキリッとした風味が
ワインの香りを引き立てます。
◎「鰺の洋風なめろう」
アジの刺身をドライトマトやドレッシングなどで味つけ。
油と酸の相乗効果で
さまざまなタイプの白ワインに合いました。
そして、ワイン監修には、日本ワインの第一人者である
鹿取みゆきさんにご協力をいただきました。
鹿取さんには、おすすめ日本ワイン100本の選定と紹介文のほかにも、
「日本ワインが和つまみに合う理由」
「和つまみと日本ワインをおいしく組み合わせるヒント」
「日本ワインを知るQ&A」
など、
鹿取さんのこれまでの経験を踏まえたメッセージ、
日本ワインの長所、見所などについて執筆いただきました。
これまで日本ワイン人気を牽引してきたお二人の協力により、
約2年をかけて実現したのが本書です。
日本ワインのファンの方はもちろん、日本の食材、
日本の生産者を信頼し、愛してやまない多くの方にも
手にとっていただければ幸いです。
投稿者 webmaster : 15:37
2012年03月28日
『わたしはゼッタイに負けない!!』
福島原発事故から150日、復活した元気な旅館の物語
『わたしはゼッタイに負けない!!』
著者:石橋孝子
発行年月:2012年3月30日
判型:四六 頁数:176頁
本には、たったひとつ、
メッセージが織り込まれてあればいいわけだ。
本書の書名を固定する経緯で、
著者から“ゼッタイに”を絶対に入れてほしい、とかなり強い要請があった。
著者が訴えたかったものは、この一点に集約されるだろう。
放射能禍の福島に限らず、被災地で必要とされているものは何か? なのだ。
何があっても……、不屈の闘志で……というのは、
いまを生きるのに忙しすぎるあまり、効率・合理性に偏った結果、
忘れつつある感覚・概念かもしれない。
政策、モノ、カネ、システムなどより重要なのは、
“ゼッタイに”復活してみせるという意志だ。
これを著者は『奇跡への挑戦』として説くのである。
3.11以降、見えなかった(見ようとしなかった)ものが、
図らずも露呈した。
分野を問わず、否応もなく意識の変革が求められている。
本書の行間に読めるのは、
著者が言うところのリセット論だが、それは特別なことではなく、
人が人の言葉で語る、ごくごく単純明快な話なのだ。
決して重いテーマではないんだ。
投稿者 webmaster : 16:16
2012年03月23日
『専門料理2012年4月号』 編集後記より
『専門料理2012年4月号』
発行年月:2012年3月19日
判型:A4変 頁数:168頁
特集:人気料理、自信作 “支持される品”の作り方
「気になるあの店の定番料理を、徹底解剖しました!」
「料理体系の完成度とシェフ個人の創意、その両方に驚かされます」
「あの店の、あの料理が食べたい!」と無性に思うこと、ありますよね。
今月号では、そんな「人気料理、自信作」の技術ポイントを
徹底的に紹介します!
フランス料理からは3シェフが登場。共通して思ったのは、
やはりフランス料理は手がかかっているなあ、ということ。
五十嵐シェフ(マノアール・ダスティン。14ページ)の料理(写真1)は、
フォワグラのテリーヌ、仔牛の胸腺肉のコンフィ、ウナギのタレ焼き、
コンソメのジュレが1品の中に詰まったぜいたくなもの。
それでいて一つひとつの食材が主張しすぎず、
一体感があるのがすごい技術といい食材といい、
まさに「この一切れの中にフランス料理の宇宙がある」。
イタリア料理からも同じく3氏が登場。
こちらは郷土料理を再現しつつ、さらに完成度を高めるというのが共通項。
早川シェフ(トラットリア イ・ビスケロ。32ページ)の
自信作は、「ミートソース」。
早川さんは、挽き肉をハンバーグみたいな塊にして表面を焼き固めて、
塊のまま煮込むんだって(写真2)。
そうして挽き肉の旨みを閉じ込める。
誰もが作れる「ミートソース」だけど、
やっぱりプロの技はひと味違いますね。
プロの技といえば、中国料理もそう。
南シェフ(一碗水。43ページ)は、鍋1つで完結する料理を見せてくれた。
調理時間はあっという間で、すべての工程にムダがなく、
すべての動きの意味が最後につながって一品になる。
中国料理の体系の完成度の高さに驚きました。
では、日本料理は?
高畑さん(太庵。46ページ)と山本さん(日本料理 龍吟。49ページ)が、
ともに肉料理を見せてくれました。
今は日本料理にも肉料理が求められる時代。
高畑さんは、「箸が通る柔らかさと、コースに無理なく組み込める
穏やかな味わい」を重視していたね。
一方で山本さんは、「真鴨の皮を乾かす」ことへの
突き詰め方がすごかった!(写真3)。
使った道具はバーナー、液体窒素、そして舌ブラシ!
こんなの、どうやったら思いつくんでしょう?
今回の山本さんの料理の調理工程は、YouTubeにアップされています。
みなさん、チェックです!
もう一つの企画は「春! 旬の定番・評判メニュー15」。
春といえば仔羊、山菜、アスパラガス……。食欲の春です。
芽吹き時の食材は「気」を蓄えているっていうけれど、
まさにそんなエネルギーを感じる料理が揃ったね。
これを糧に、明日からまたがんばっていきます!
大震災から1年。
専門料理では今後も被災地の取組みを追っていきます
この3月で、東日本大震災からまる1年。
連載「東北から 食の震災 食の復興」(108ページ)では、
福島と宮城の米をめぐる現在の状況を取材しました。
福島県の米農家、鈴木博之さんによると今年の米は味もよく、
放射性物質は概ね10Bq/kg以下。
それでも「『安全ですか?』の問いに
自信を持って答えられないのが辛い」という言葉が胸に刺さった。
鈴木さんは、よりセシウムの移行が少ない米作りに
取り組んでいくそうです。
被災地には、復興に向けて苦闘を続ける生産者や料理人がたくさんいます。
今後も、長期的視点に立ってそうした取り組みを
紹介していきたいと思います。
投稿者 webmaster : 14:33
2012年03月16日
料理本のソムリエ [vol.40]
【 vol.40 】
関東大震災がおでんにもたらしたもの
前回、関西炊き出し隊が東京に関西風おでんブームをおこしただの、江戸から伝わる味の店が失われたために関西風の味つけのおでんが東京を席捲しただのといった、寝ぼけたWikipediaの記事を一笑に付しました。そしたらね、アップしたその日のうちに炊き出し隊の一件が、「関東大震災(1923年)の時、関西の職人の行き来があり、関西風のおでんが関東に逆輸入されていった」という文章に変わっておりましたよ。Wikiの唯一よいところは、修正の履歴が残っていて、直した全過程が追いかけられること。vol39の批判を見てあわてて書き換えたのかしら? いやいや、このブログは読者の方々もご存知の通り、最果ての地の隠れ家ブログですから(会員制でも看板を出していないわけでもないのにね)偶然でしょうね。「かんとうふ煮」の一件は直ってませんでしたし。
修正後はだいぶましになりましたが、それでも及第点はあげられません。直すにあたって紀文食品のHPを参考にされたようですが、そちらでは「時代は大正に入り、東京と大阪の2つのタイプが出会い、おでんがさらに進化するのは、大正12(1923)年の関東大震災で、東西の料理人の行き来がきっかけです」とたくみにぼかした表現なんですよ。それがWikiの書き込みではずいぶん断定的に変わっているうえに、「東西の料理人」が「関西の職人」に劣化コピーされちゃってます。後になるほど研究成果が積み上がって進歩するどころか、引用すればするほどだめになっていくよい見本です。
料理界における「職人」という言葉は、本来は日本料理や寿司、鰻、てんぷらなどの調理師会に所属している雇われの料理人たちのことで、特定の集団を指す専門用語。「職人」という響きにブルーカラーに対する職業差別的な含みがあった時代においても、誇りを持って自称としても使われてきた言葉であり、「主人」と対になるものです(もちろん「職人あがり」のオーナー料理店もありますが、それはそれ)。それなのに、グルメ記者の方々がこだわりのナンタラや一子相伝のカンタラと同じ安直なほめ言葉のニュアンスで使うようになって、わけがわからなくなっています。「そば職人」なんてのも見かけますが、そばの世界にもかつては調理師会があったので、誤解を招くから避けたほうがいいでしょう。「ラーメン職人」にいたっては、たいがいにしたほうがよろしい。
前にも書きましたように、当時のおでんは屋台の店が主流ですから素人が参入しやすいし、作る人も売る人も資金を出す人も一緒ですから「職人」なんて概念からはほど遠いのです。
もちろんだからといって、今のおでんまでもが誰でも作れる簡単な料理だと言っているわけではないですよ。むしろ最近は料理店で修業した人がおでん屋さんを始めたり、ひとつの店で各地のだしが味わえたりと、ますます進化しています。ただ、スタートはそうじゃなかったということを頭に入れておいてもらわないと。そもそも日本人って、てんぷらにしてもそばうどんにしてもすしにしても、簡単なスナックのような料理を練り上げて、完成度を上げていくのが好きな国民性ですよね。
100年前のおでんはどこで誰が食べるどんな料理だったのか。明治33年の職業案内『如何にして生活すべき乎』によると、屋台のおでんは「職人、車夫、人足が主たる得意」であり、仕入れ値が5厘のがんもどきは1銭に、4厘のコンニャクは2つに切って1銭に、里芋大100個50銭は200本の串に刺して1本を5厘に、という具合。蒲鉾、ちくわ、はんぺん、焼き豆腐は原価の倍、燗酒と茶飯の利益は1割5分。一晩の売り上げはおでん2円40銭から50銭(利益1円25銭)、酒と茶飯は1円40銭から50銭(利益23銭)。煮汁と光熱費は売り上げの1割を占め、仮に月に20日営業(雨風の日はお休み)とすると、21円60銭が月収となるそうです。ただしこの煮汁の調達法、おっそろしいことに大料理屋から買うとありまして(鍋の残りか?残り汁なのか?)、大阪風とか吸いきれる味加減とかいう以前の問題であります。イニシャルコストはどうなっているかといいますと、屋台や道具一式を貸し出す損料貸がおりまして、月に3円から4円で借りられるそうです。
続いて明治36年の『実験苦学案内』。これは大阪の出版社から出た本なのですが、おでん屋の説明に「東京には専ら行なわれて居って」というくだりがありました。つまり大阪ではまださほどポピュラーではなかったということでしょうか。一夜の純益は85銭とありますが、これは東京で得たデータなのかな? だいぶ儲けが減りましたねえ。
それが明治43年の『無資本実行の最新実業成功法』となると「東京にてはおでん燗酒といひ、大阪にては上燗屋といふ、その他の地方にもこの商売は盛んに行はる、而して多くは港のあるところ、職工の多きところにて、何れかといはば下等の労働者が多きところに盛んなるを見るなり」とありまして、関西でも市民権を確立したようです。ただし鍋に入れる具がちょっと東京の出版物と違います。蒟蒻、里芋、蒲鉾、焼き豆腐は同じなのですが、てんぷら(さつま揚げ? それともごぼ天のことですかね)にニンジン、牛肉とあります。人気があるのは蒟蒻と牛肉で、不人気なのは蒲鉾。とはいえ売れ残りの具は細かく刻んで炊き込んで五目めしにするというのですからさすがです。コロやサエズリは入っておりませんが、おでんのほかに鯨汁や牛肉の味噌煮などを売る店も現れて、そちらのほうが顧客も多くて利益もよいとか。一晩に2円98銭の利益を上げるとありまして、「これよりぼろき商売はなきが如し」と満を持してすすめております。
一方同じ明治44年に東京で出版された『職業案内全書』では一夜の純益は60銭から70銭とだいぶ低め。明治41年の『小資本営業の秘訣』では80銭だったので、悪化の一途をたどっているように思えます。これは「廓の大門から花降りかかる仲の町、さては新宿、洲崎、品川、乃至は銀座通り、人形町、十軒店、四谷至る所おでん燗の屋台を見ない所のない」という東京のおでん屋の過当競争状態が原因かもしれません。
なお明治後半の苦学生が糊口をしのぐために屋台を引いた件(今ならアルバイトにはげむところなんでしょうが)については、青弓社ライブラリーの『夜食の文化誌』で触れられています。社会学系の学者さんの料理研究は、資料収集がおざなりで推論空論に走るものが多いなか、こちらはなかなかの力作でお勧めです。
ちなみに『無資本実行の…』の関西おでん事情の説明中には「関東だき」という呼び名は見当たりません。つゆの味についても詳しい説明はありませんでしたが、煮汁にかかる費用30銭の内訳は醤油、砂糖、鰹等とありまして、甘辛く煮ていそうです。まあ、この資料ひとつだけではなんともいえませんけどねえ、Wiki先生はどうして「逆輸入した」にそんなにこだわるのか。震災前後のおでんの進化の過程を追いかけるには、当時の資料をあたるしかない。化石の研究みたいなもんですね。汁まで吸える薄味のおでんはいつどこで生まれて、どう伝播したのか。そこの検証を怠って、逆輸入も並行輸入もないもんだ。おでん韓国起源説とレベルはどっこいどっこいです。
それでも紀文食品の東西交流説は、炊き出し説や江戸おでん絶滅説よりは信憑性が高いです。震災に懲りて東京を離れて関西に新天地を求めた人がいたでしょうし、復興特需に惹かれて関西から上京してきた人もいたでしょう。そうした人の移動の中でおでんが大きく変化した可能性は充分ありえます。
でも炊き出し云々はないよねえ。関東大震災がどんな災害だったのかまるでわかっていないことが丸わかり。その場の思いつきを書き込んで得意がっている馬鹿モノは、誰だか知らないけど廊下でバケツを持って反省するように。
当時はラジオもありませんから、大正12年9月1日11時28分に何が起きたのか関西の人たちはすぐに知る手だてがありませんでした。電信を使って得た情報で新聞は号外を発行しましたが(ほとんどの新聞社が被災した東京では、しばらく本紙すら発行できませんでした)、トン・ツーで写真なんぞは送れませんから、未曾有の災害が起こったという文字が躍るだけ。東海道本線は不通ですし(箱根のトンネルは崩落し、根府川駅は地すべりで駅ごと列車が海に流され、多くの犠牲者を出しました)、高速はもちろんガソリンスタンドだってない時代ですから自動車で移動することもできません。軍の飛行機や船、さらに信越線を使って北回りで記者たちがおっとり刀で東京入りし、その惨状が写真入りで紙面に掲載されるようになったのは、地震から2日後のことです。のちにそうした写真を使った絵葉書が大ヒットしまして、その乱発ぶりに不謹慎だと批判されたりもいたしました。
そうした新聞や写真を見て発奮し、手に手に淡口醤油や牛筋やコロを抱えて関西から炊き出し部隊が出発したんでしょうけど、現地入りしたのはいつの段階の話ですかね。東京で関東だきブームがおきるほどの量を提供したそうですが、練り物や豆腐、コンニャクといった材料は築地で買出ししたんですかね。器は発泡スチロールではあるまいな…。
私は女学校の生徒たちが炊き出しをしたとか関東からの避難民を関西の人が温かく受け入れたという報道は見たことがありますが、関西炊き出し団の活躍は寡聞にして知りません。やくざや同業者ににらまれなかったろうか心配です。小回りのきく屋台は震災直後にまっ先に復活していましたからね。
そもそも江戸の味を伝える店が失われたってあなた、立派な什器や家屋の損壊を受けたり、不幸にして女将が亡くなられた料亭ならともかく、屋台でも出せるおでんですよ? それともおでん屋さんばかりが被災して「おでん職人」がみな亡くなったとでも思っているんでしょうか。馬鹿馬鹿しい。店がつぶれて腕をふるう場所がいったん消えたとしても、必ずや復活します。たとえどんな形であったとしても。
地震から3カ月後の12月1日の東京朝日新聞は、「一朝にして下町が焦土に帰した時灰の中から起ち上がって商売の第一声をあげたものは大道の露天商人であった。中には罹災者もあろうが自らの労力と少しばかりの資本を基にして彼等は震災直後おでん屋、すいとん屋、水菓子屋として市民の目前に現れ…」と報じており、指定地や慣行地の外にまではみ出して増えた露天商人の整理が問題になっています。実際、台東区の震災後の区画整理の資料をみていたら、焼け跡の不法占拠者リストの中にちゃっかりおでん屋台がありましたし。あ、もしかしたらこの屋台、大阪からやってきたのかな?
かつてはWikiの説とは逆に「関東大震災を機に東京から移ったおでん屋が、関東風のおでんを関西に持ち込んだため、従来からあった味噌味の田楽と区別するために関東だきと呼ばれるようになった」という説明が一般的でした(たとえば前回挙げた『セブン‐イレブンおでん部会』はこの説をとっています)。これもまた俗説でして、きちんと資料で立証しなければうかつなことは言えないよなあ、とかねがね思っていたのですが、いつの間にかおでん研究は私の知らない次元の高みへと飛翔していたのでした。ああやだやだ。
確かに関東大震災は風俗史的に時代の大きな潮目となっておりまして、料理に関しても例外ではありません。震災後から支那そば屋が流行るようになった、関西料理が東京に広がった、なんていうのがよく知られています。
ただしこれらの通説も、「あのころから流行ったぽい」という域を出ておらず、同時代資料できちんと説明されるまでには至っておりません。たとえば震災直後に発行された雑誌や新聞に、最近屋台のワンタン屋が増えたという記事がありましたが、一過性のブームで終わったものなのか(ワンタンの裏メニューで支那そばも出していたというのなら話は別ですが)、料理史の本を見ていてもぜんぜん出てきません。人間の記憶なんてものはいい加減で、震災のショックで何が前からあったのか頭から飛んでしまい、何がその後に起きたのか、混乱したまま語りつがれるということもありえます。
たとえば震災直後に添田知道が作詞した「復興節」にはこんな詞があります。
―― 学校へ行くにもお供を連れたお嬢さんがゆで小豆を開業し アラマ オヤマ
恥ずかしそうに差し出せば お客が恐縮してお辞儀をして受け取る エーゾ エーゾ
帝都復興 エーゾ エーゾ
ゆで小豆や雑煮、汁粉を売る汁粉屋さん(関西でいうぜんざい屋さん)もまた、素人が開業しやすい店ですね。戦前は女性グループが食べに行ける店として圧倒的な人気を誇ったものですが、今の人はほとんど知らないでしょう。
この復興節、終始底抜けに明るい歌詞と調子でして現代人にはハラハラするような内容ですが、添田の『演歌の明治大正史』によれば、作った本人もおっかなびっくりだったようです。彼は下谷から焼けずにすんだ日暮里へ避難し、急拠刷った唄本の宣伝のために横丁で歌い始めます(当時の演歌というのは、時事ネタを歌にして街頭で歌いあげるものでした)。「夜は暗く死んだように沈みかえっている。そんな中で歌声をあげたりしたら、袋だたきにでもあうのではないか、そんな不安があった。とある横丁でうたいはじめると、たちまち、暗い家々からとび出してきた人々にかこまれた。しかしそれは、不安とは逆な、熱心に聞き入る人々であった」。ちなみに彼は浅草の風俗を活写した『浅草底流記』も書いておりまして、「大衆の食卓 ― 屋台店」の章で、「おでん屋には稀にうまいものもあるが…(略)…何もかも多く駄物屋仕入れである」とし、名店として広小路の「舎人屋」という店をあげています。この店は昭和6年当時で創業25年だそうですから、明治の末からの営業ですね。江戸の味を伝える店が失われ云々に根拠がないのがよくわかります。
大正14年5月19日の東京朝日新聞では、東京市の統計課の調査を報じておりまして震災後には外食の機会が増えたそうです。料理店が300軒に減少したのに対し、簡易な飲食店は1万2533軒を数え、30戸に1軒、150人に1軒(当時の1戸は5人家族が標準なんですね)の割合だとか。実に震災前の2割増し。その内訳ですが、酒肴めしが2437、西洋料理屋1770、汁粉屋1464、そば屋1374、おでん屋1134、すし屋874、喫茶店832、支那料理466。そば屋におよばないもののすし屋を凌駕しております。関西おでん職人組合の勢力拡大の成果だとしたら、その力たるや恐るべし。それにしても大阪うどんや押しずしの職人は、このとき何をやっていたのでしょう。ふがいない。
そのほか震災後、店を失った料理店の女将がおでん屋さんを始めたなんて記事もありました。料理屋のノウハウが流れ込んで、おでんが進化した可能性もありますね。大正12年12月に発行された『女が自活するには』は、震災未亡人も含めたご婦人方を読者層として想定した開業本ですが、汁粉屋とともにおでん屋さんも簡単な商売としてすすめております。屋台を借りる方法のほか、銅の胴壷つきの釜を買って(30円くらい)、軒下を少し作り変えれば開業できるとしています。吸いきれる味のおでんの出現は主婦の発明かもしれませんよ。
投稿者 webmaster : 13:23
2012年03月08日
『津田陽子の100のおやつ』
『津田陽子の100のおやつ』
著者:津田陽子
発行年月:2012年2月27日
判型:B5変 頁数:144頁
「おやつ」にもう一度立ち返りたい
京都と東京でお菓子教室と焼き菓子を販売するお店を主宰するかたわら、これまで『くるくるロールケーキ』『さくさくクッキー』(文化出版局)、『タルト』(リトル・モア)など本もたくさん出している津田陽子さん。弊社でも『カフェ・スイーツ』にたびたび登場していただいています。
そんな津田さんとこのたび「本を作りましょう」となり、
初めての打合せで津田さんの口から出てきたのは少し意外な言葉でした。
「いま、私が作りたいのは“おやつ”の本。
できるだけシンプルでやさしい雰囲気の、家で毎日作りたくなるような。
本を開いた時に“明日これ作ってみよう!”とワクワクするような……」
津田さんのこれまでの本とは少し違う方向性に、正直ちょっと驚きつつも
(実は、こちらは別の企画書を用意していました)
「フランスにはパティスリーもブーランジュリーのお菓子もあるけど、
お母さんが家でお菓子を作る習慣もしっかり根付いているでしょう?
そういう“おうちのお菓子”をもう一度見直す時期だと思う。
私自身、お母さんが作る“おやつ”で育ってきた人間。
おやつが持っている“やさしさ”みたいなものをみんな求めていると思うし、
そこに立ち返るような本が作れたら……」
そして
「あと、ルセットが100品載ってるお菓子の本を作りたい!」
という津田さんの言葉に思わず引き込まれてコンセプトが決定。
【どういうラインアップにしたら、写真にしたら、デザインにしたら、レシピの
書き方にしたら、ずっとそばに置いておきたくなるような本になるだろう?】
何度も津田さんとアイデアを出し合いながら本作りを進めました。
(内容については『津田陽子の100のおやつ』のページをご覧ください!)
この本は津田さんと担当者(私です)で私物を持ち寄って撮影しました。
その際、ロールケーキやケイクについフォークを添えようとする私を見ては
「私なら手で食べるけどなぁ。おやつやし」と津田さんのダメ出し。
手で持って食べるから生地の温度やきめ細かさ、ふんわり感が伝わる――。
そういうわけで、すくって食べる一部のお菓子以外はフォークもスプーンも
添えていません。撮影したパンケーキもタルトも全部手でいただきました!
この本が発売になって気づいたこと。
それは、手にとってくださった人が全員、
まず「おいしい水のゼリー」(p126)の不思議さに目を奪われるらしいのです。
たしかに、私も最初に「水のゼリーっていうのがあんねんけど」と言われた時は驚きました。
でもこれが、なんともいい味わいなのです。
イメージは某お菓子会社の「ドロ〇ッチ」とか!
実際に「ミディ・アプレミディ」のサロンでは、もう少しゆるく固めたものをコーヒーと一緒に出しているそうです。
本のまえがきやあとがきに津田さんが書いているように、
いまやおやつは子供のものではなく、大人にこそ必要なのでは?という時代。
私自身、食べてほっとひと息つくおやつの時間は欠かせません。
また、最近はスイーツ男子なる言葉があったり、
実際にお菓子を作る男性も増えているといいます。
そこで、ラインアップはそんなお菓子好きな人たちが心躍るものは?と考え、
「メレンゲ山椒」や「カレーとチーズのサブレ」「グジェール」など
おつまみにもなるおやつも盛り込みました。
100個のおやつの中には、少し手のこんだものもありますが、
お菓子に興味がある人であれば作りやすいものがほとんど。
ぜひおやつを食べるのはもちろん、「作る楽しさ」も味わってみてください。
◎メレンゲ山椒
甘いメレンゲに山椒が香る、
大人のおやつ
◎カレーとチーズのサブレ
ほんのりはちみつの甘みが
カレーとチーズの風味を
引き立てます!
◎グジェール
もっちり、しっとり。
おつまみにもなる塩味のシュー
投稿者 webmaster : 15:44
2012年03月01日
料理本のソムリエ [vol.39]
【 vol.39 】
ポン酢とおでんとウィキペディアの罠
3月の声を聞こうとしているのに雪は降るわ、梅の開花は遅れるわ。エアコン新調の金を惜しむ私ですが、コンロ暖房にそうも頼っていられないのでコタツを買いましたぞ。
売り場に行って驚いたことには、もはや電気カーペットが季節家電の主流で、コタツは夏場の扇風機以上に少数派。端っこに申し訳程度に積み上げられていました。そういえば掘りゴタツってのは、居酒屋のテーブルの下のことだと思っている人がほとんどだしねえ(あれは暖房じゃないからコタツじゃなくて「掘り込み式」というんですよ)。昔は裏返って腹っていうかヒーター部分をこっちに向けた電気コタツが、売り場にずらりと並んでいたもんですが。当時の製品はお腹がぽっこりしていましたが、今は見事にスリムですね。
何年ぶりかにコタツに入りますと、もう布団から指一本出したくなくなりますよ(誰か代わりにトイレ行ってきてー)。コタツの外は5℃をきってるし。さすが二度と出られぬ東洋のクノッソス。日本のPCメーカーはタッチパッドの製品に対抗するために、コタツをおまけにつければいいのに(キーはコタツの中でブラインドタッチで叩いてね)。もちろんマウスはコードレスじゃない昔ながらのやつで。いっそテレビのリモコンも有線にしてほしいくらい。ミカンがなくなったら持ってきて皮をむいて口に放り込んでくれる二足歩行ロボットを開発してくれれば、なおよし。おお偉大なる国産家電製品たちよ。
ガラパゴス化っていうのはあちらの島の方々にとっても失礼な話で、ジパング化といってほしいですよね。コタツにあたって鍋で晩酌まで始めた日にゃ、現代のエルドラド。ということで今回は、鍋は鍋でも鍋物の本の話です。
小社の鍋料理の書籍には『ひとり鍋ふたり鍋』と『鍋料理』という両極端なものがありまして、かたや和中韓の若手料理人が提案する一人暮らしの家庭用レシピ、かたや鍋専門店のみならず、居酒屋やエスニック料理店にも取材した101種類の業務用レシピ。まあ鍋料理というのは単純ですから、中途半端なコンセプトではわざわざ本を買おうという人はそういないでしょうから。
さらに古い本に『月刊専門料理』の鍋関係の記事をまとめた『料理屋の鍋もの』ってのがありますが、これを語るにはつらい懺悔をせにゃなりません。会社の上司にはないしょだぞ。78ページに「…ポンスの作り方の記録はオランダ通事(通訳)の楢林重兵衛の談話をまとめた『楢林雑話』(一七五八年)に登場するが、ここでは柑橘類の使用についてはまったく触れられていない」とありますがこれは間違いです。そんでもって私が書きました。
言い訳しますとこの文献、小学館の『日本国語大辞典』のポンスの項を見て知ったんです。もちろん原本もチェックしなきゃならんのですが、忙しくてそのひまがない。意を決して閉館ぎりぎりに図書館に駆け込んで、楢林雑話が収録されている『海表叢書』(『広辞苑』の新村出が活字化したものです)を悲しげな音楽が流れる中で開きました。あった、あったよ、よかったーと閉じたのですが、実は次のページに日本国語大辞典に引用されていない続きの文「肉桂、木酢等を入」があったんですよ。木酢ってちょっとピンときませんが、ちゃんと注がありまして「だいだい、梅、柚、枳殻(からたち)などの類、水をとり貯」。果実の絞り汁のことですね。見落としてました。私が再三「STOP ザ 孫引き」キャンペーンを張っているのもこうした自分自身の苦い経験があるからでして。
ポン酢の語源はオランダからきた飲み物の「ポンス」に由来するというのがこれまでの説。『講談社オランダ語辞典』によりますとオランダ語のポンスっていうのは、英語のパンチからきたもので、『中陵漫録』にも記述があるそうです。これによると蒸留酒のアラックにダイダイの汁、砂糖を加えて一煮立ちさせ、水を加えて飲む夏の暑気払いの飲み物だとか。ですが、その名が転じて調味料にも使われるようになった経緯は相変わらずわかりません(負けおしみ)。江戸時代の料理書には「柚じょうゆ」は出てきても、ポンスが見当たらないのです。他人の空似かもしれない飲み物起源説は一考する必要があると言いたかったのですが、ちょっと勇み足でした。私の文の初出は『専門料理』1999年1月号でして、黒歴史として葬り去られるはずだったのが、こともあろうに私の知らない間に2001年に単行本に再録されていたのですよ。ひとこと言ってよー。
さあ、大変。間違った知識が世に広がってしまったらどうしよう。どうも最近はWikipediaなるWeb上の百科事典もあるらしいぞ…とその時初めてアクセスしてみたところ、ポン酢に醤油を入れるか入れないかで編集合戦してました(呆然)。楢林雑話のナの字もありません。ののしりあったはてにしばらく編集がブロックされていたのですが、解除されたと思ったら今度は語源はポルトガル語という新説が登場しました(さらに呆然)。ポルトガル語のポモは果実の意味で柑橘とイコールじゃないし、それならスペイン語だって充分有力候補になりえます。あるいは同じラテン系のフランス語やイタリア語からかもしれませんよ。
Wikiのはらむ問題はここにありまして、出典や論の根拠が明示されていれば検証しようもあるのですが(もっとも世に出回っている料理本の記述には誤りも多いので、間違ってることはしょっちゅうありますが)、「コンピュータや医学用語の解説はできないけど、普段食べているもののことなら俺でもわかる」と料理をナメてかかっている人たちが、余計な親切心からその場の思いつきの新説を書き足しちゃう。つぎはぎだらけなので、一部に正しい説明が残っていることが災いして、全部が正しいと誤解されちゃうので始末に悪い。Wiki側も出典を明示するよう指導しているみたいだし、おかしな投稿はチェックしているようですが、なにぶんボランティアなので監視の目をすり抜けた例が山とあります。おかげで料理関係の記事を見た日にゃ、目を覆ったり頭を抱えたり首をひねったりお腹がよじれたりと忙しくって仕方ない。料理店や食品会社のHPなどに、ばんばんデジタル孫引き(コピペ)されているけどいいのかしら。
わかっているなら直してやれって? でも、全部一から書き改めるならまだしも箸にも棒にもかからない過去の投稿を生かしつつ修正するのは大変だし、せっかく苦労して直しても誰かにまた書き足されてぶち壊しになっちゃうかもしれないんですよ? 思いつきで「ある」と書くのは簡単ですが、「そんなことはない」と証明するのはなかなか骨が折れます。まあ、そもそもWikiへの書き込みのお作法を知らないもので。すみません。
ここまで書いて試しにWikiの「おでん」の記事を、おそるおそる開いてみたのですが…。「関東におけるおでん人気は下火になっていたが、関東大震災の時、関西から救援に来た人たちの炊き出しで「関東煮」が振る舞われたことをきっかけとして、人気が回復した」「江戸時代の味を受け継ぐ店は震災によりほとんどが失われていたため、一時期、関西風の味付けをするおでんが東京を席捲した」。涙で顔が上げられません。10年経っても誰一人気づいてくれない(ていうか読まれてない?)ような間違いでくよくよするな、原資料なんか気にするなという力強いメッセージ。蛮勇という名の勇気をもらいました。
「関東煮やなくて広東煮や! けっして関東モンのまねをしたんやない(エセ関西弁)」っていう威勢のいい意見もいまだに見かけますが、その原型となる広東の煮込み料理っていったいなんでしょう? 広東料理に練り物は見あたらないし、コンニャクは四川や雲南のローカル食材だし…。初めて見た謎の中国料理(チャプスイか?)からヒントを得て今のおでんにたどり着いたとしたら、そりゃあかなりの想像力です。
Wikiの関東だきの語源(またかい…)には「かんとうふ煮」説なんてものも挙げられてますが、これに関しては珍しく出典が明示されています。それに従って大阪の「た古梅」のHPへ飛ぶと「蛸や烏賊などを醤油で煮た食べ物を「かんとうふ煮」といい、江戸時代の書物に記述を見ることができます」とありました。とほほほほ…。
関東煮(「かんとふ煮」ですからね)は今でいう蛸の桜煮のことで、幕末に松山藩から長州藩へ派遣された使節の日記にも出てくる全国的な料理。煮込みのおでんとは違うものであると川上行藏先生が『湯吹きと風呂吹き』で考証しています。一方江戸時代にも「おでん」なる言葉は登場しているのですが、『浮世風呂』にお芋のお田、『浪花の風』に大阪ではコンニャクの田楽をおしなべておでんという、とありましてどちらも味噌田楽のことっぽい。今の煮込みおでんが普及したのは明治のことかもしれないと、川上先生は結論を保留しています。
がんもどきや練り物の入るおでんは明治の中ごろには確認できますから、幕末から明治維新の頃が転換期なのでしょうか。「おでん燗酒」というのは居酒屋の業態のひとつで、屋台のおでんは苦学生や資金のない人が自活する手段となっており、流行りはじめた洋食屋台なんぞよりもずっとありふれた存在でした。素人料理だったからこそ、具も味つけも何でもありで種類が広がったのかもしれませんね。
串に刺さった豆腐やコンニャクに練り味噌をぬった田楽は、いつの間にか串と味噌の呪縛から解き放たれて鍋ものにまで姿を変えたわけですが、進化の過程で日本各地でいろいろな姿が生み出されています。ガラパゴス諸島のフィンチのように。それを集めたおでん界のダーウィンが『とことんおでん紀行』の新井由己氏です。ただし全国を回ったのはビーグル号ではなくて、新聞配達用の原付バイク。新井氏は日本全国を旅しておでんを食べまくり、串に刺さっていたり、味噌をつけたりする古い形を残した地方のおでんや、独自に発達したおでん種を見出しました。コンビニがおでんを積極的に売るようになってからは、こうした地方差が一般にも知られるようになりましたが、当時としては画期的でした。
ちなみに沖縄にはおでんというよりキントンみたいな「田芋の田楽」がありますが、その一方で豚足の入ったご当地おでんがあります。台湾でも「黒輪」(オーレン)という名前で知られており、暖かい地方でも食べられているんですね。寒い韓国ならなおのことで、日本語そのままの「おでん」で通じてしまうのですが、つい先日、フジテレビの朝番組で韓国が起源かもしれないなんて、まったくもって不勉強なコメントをしてたそうです。でもWikiの一件を思うと笑えなくなっちゃったなあ。
どこが起源だなんて意地の張り合いはさておいて、それぞれの地方の個性をいろいろ楽しみたいよねえ。コンビニの商品開発の工夫をレポートする『セブン‐イレブンおでん部会』によると、同チェーンでは2006年からつゆの種類を地方によって6種類に分けているそうです。ためしに大阪出張のついでに食べてみたら、確かにつゆが淡くて淡口醤油ベースな感じ。最近つけてくれるようになった薬味の柚子コショウも、香りがよくって芥子とも違ったアクセントになっていてなかなかおいしい。サンクスはこのところ「チビ太のおでん」なんてテーマで新商品を毎年送り出しているし。おでんの多様な進化、恐るべし。
「さあて今度はコタツでおでんといこうかしら、極楽、極楽、よくぞ日本に生まれけり」と調子にのっていると、「イランにもコルシィーがあるぞよ」という天の声が。イランでもカスピ海沿岸の田舎には水田が広がって柿がなっていて、山に行けばスキーだってできるそうですが、まさかコタツまであろうとは。まあ、写真をごろうじろ。左はイラン最後の皇帝が使っていた冬の宮殿にあるコタツで、高級北欧家具と言われても信じてしまいそう。右は家庭の別荘(!)にある現役のコタツです。床に敷くのはペルシャ絨毯か? わが家の最新家具調コタツがびんぼくさく見えます。なんでもかんでも自分のところが起源で一番で、よそに同じものなどないと思ったら大間違い。井戸の中の蛙、コタツの中のなまけものでありました。
ならばと手当たり次第に寒そうな国名とコタツを組み合わせて検索してみると、民族衣装をまとった人たちのコタツムリ姿が…。アフガニスタンやウズベキスタンには日本そっくりのサンダリが。さらにスペインにはブラセーロという、クロスをかけたテーブルの下に入れる火鉢みたいなものがあるそうです。洋式ゴタツ! なにかと本場のものを取り入れるのに目がない日本のスペイン料理店なら見ることができるのでしょうか。どなたか情報をお待ちしております。
投稿者 webmaster : 10:25