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2012年05月25日

料理本のソムリエ [vol.43]

【 vol.43 】
柴田書店と青林書院と勁草書房を結ぶ縁


 前回、春の陽気に誘われてのこのこ湯島から本郷まで足をのばした当ブログ主でありますが、賢明なる読者諸氏はすでにご明察の通り、「呑喜」さんはGW休みで閉まっておりました。でも、ぜんぜん悔しくなんかありません。なぜなら財布をうっかり会社に忘れてきちゃってましたからね。えへん。暖かくてジャケットを脱いで椅子の背に引っかけていたのが運のつき。うかうか食事して、さあお会計ってときに気づいた日にゃえらいことになってましたよ。なんて間がいいんでしょう。

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 仕方なく本郷通りをすごすごと本郷三丁目方面へ向かいます。このあたり、古本屋さんをはじめずいぶんシャッターを閉じた店が多くなりました。カレーの「ルオー」は両隣が閉じてしまってぽつんとさびしそう。東京の真ん中でもシャッター通りが出現するとは嫌な世の中になったもんですなあ。
 東大正門前の自然科学と古典籍に強い古本屋、井上書店さんが頑張っていらっしゃるのにちょっと安心。柴田書店は昔こちらから資料を買ったことがあるとかで、会社宛にずっと律儀に古書目録が送られておりました(もったいないから私が横取りしてました)。その向かいの「万定フルーツパーラー」もまだまだ健在ですぞ。うれしいですねえ。ここの時代物の立派なレジスターもまだ現役かな? おっと財布を忘れたのを忘れてドアを開けるところだった。あぶないあぶない。

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 突き当たりの六叉路の奥にあった、細打ちのいいそばや梅そうめんがおいしい「萬盛庵」さんは、ご主人が亡くなったとかで残念ながら閉店されてしまいました。角にあったレトロで重厚感のある建物には文生書院さんが入っていて、そのいかめしい分厚い扉を押すのはちょっと勇気が必要だったのですが、これも今はありません。もっとも人文古書を扱うかたわらで学術出版にも励む文生書院さん自体は、目と鼻の先に引っ越して今もばりばり活躍中。GW前に古書目録が出たばかりだし、新刊の『在米婦人之友復刻版』にはどんな料理記事が載っているか興味あるぞ。ちょっと寄っていこうかしら…って、一文無しでどうする。全然懲りておりません。

seirinshoin.jpg 以前文生書院さんがあった建物の向かいが、これまた学術出版社の青林書院さんの本社ビルです。法律や経済、経営などの社会科学がご専門。さすが天下の東大のお膝元。固ーい出版社が目白押しですなあ。

 でもね、固そうにみえて気持ち軟らかめの柴田書店と青林書院は、まんざら赤の他人ってわけでもないんですよ。実は先日、小社の営業部が総出で会社の初版本を整理したのですが、その中からこの通り、青林書院さんの本もでてくるでてくる…。ダンボール1箱分ありました。実は柴田書店創業者の柴田良太は、青林書院の初代社長でもあったのです。

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 もっとも社長と言っても出資者で、経理担当みたいなもんでして、現場を切り盛りしていたのは逸見俊吾氏です。彼はこれまた学術出版社として有名な勁草書房の創立者でもありました。同社は北陸に展開する大和百貨店の出版部として昭和23年に誕生したのですが、富山出身の逸見氏がその広い人脈を買われて主幹に就いたのです。石川県の物産などを販売する大和百貨店東京支店は銀座資生堂の前で、その3階に勁草書房が入っておりました。

 しかし2年後にはテナントの料理店から出火して東京支店の建物は焼失。勁草書房を辞めた逸見氏は、政治家の松村謙三の秘書になりまして、しばらく出版の世界から遠ざかっておりました。ところが肝心の総選挙の時期に逸見氏は、急性盲腸炎をこじらせて長期入院するという運の悪さ。病室で悶々としているところを狙いすまして、彼の才能を惜しんだ柴田良太が、出版界に帰り咲くよう何度も口説きに参ります。良太は3年前に柴田書店を興したばかりでしたが、前職は取次ぎ(本の問屋さん)で仕入れを担当していたため、逸見氏の企画・編集力を知っていたのです。

okuzuke.jpg そこで二人で始めたのが青林書院というわけです。100万円の資本金を出した柴田が社長で逸見氏は取締役。昭和28年8月のことで、柴田良太が28歳、逸見氏は30歳でした。
 最初に出版したのは武者小路実篤の『生涯を顧みて人生を語る』。さらに『経済学演習講座』『実務法律講座』『仮差押・仮処分』といったヒット作を連発します。しかし元来地味で堅実型、慎重型で露骨に感情を出さない良太と、直情的で単純で楽観的な逸見氏は、二人のプライドも手伝って離反してしまいます。性格の不一致という奴ですね。
 良太は本業の柴田書店に専念すべく、株を逸見氏に売り渡しまして青林書院の経営から身を引きます。一方の逸見氏はライバルである有斐閣の向こうを張って『現代法学全書』を発行したり、『法律学ハンドブック』といった本を世に送り出しますが、元来派手好きな性格のために銀座で豪遊したり、芸能人とつきあったりと出費も多く、経営は順風万帆ではありませんでした。株を引き取るために良太に月々払っていた借金も滞る始末です。

 そこで起死回生の策として着手したのが、自身の芸能界との人脈を生かしたソノシート付の音楽全集出版です。ソノシートってレコードよりもぺらんぺらんした材質でできていて、ウルトラマンだのオバQだののテレビ主題歌などが入ったものは子供雑誌の付録の定番だったのですが、説明は省きます。音が出る丸いビニール板とでも思ってね。

 当時、朝日ソノラマを筆頭に、ソノシート付出版物を世に送る会社はいくつかありましたが、レコード会社の原盤からおこした豪華な青林書院の全集は世間をあっと言わせるものでした。ところが好事魔多し、肝心のソノシートに不良品が大量発生して返品の嵐となり、青林書院は昭和36年に1億3000万円の負債を抱えて倒産してしまいました。このときの一部始終は俊吾氏の伴侶で、与謝野晶子研究者として知られる逸見久美氏(vol.24 に出てきました翁久允の娘さんでもあります)の『女ひと筋の道』が詳しいです。

「青林書院いよいよ倒産」の噂が世に広まると債権者たちは朝から逸見宅に詰めかけ、土地建物、在庫をよこせと迫りますが、どれも何重もの担保となっており、どうにもなりません。残務処理用の虎の子の30 万円を狙って経理部長と営業部社員は退職金をよこせと迫ります。くだんの経理部長は債権者に脅されて、社長が会社の金を着服しているとその場逃れの嘘をつき、事態はさらにこじれます。在庫を押さえようとしにきた取次ぎ側についた営業部社員とそれに反対する社員とで乱闘寸前。社内の空気はもうずたずたです。

 このとき柴田良太はすでに青林書院から離れていたため、一連の騒ぎとは無関係でした。息子さんを実家の富山に避難させた逸見久美氏が、小学校へ説明に行ったとき、偶然良太の妻の孝子と出会います。二人は青林書院創業時の取締役で経理に携わった仲でした。
〈昨日からの緊張が急にゆるんだ私は奥さまの顔をみるなり苦境でめぐりあった姉妹のように、「とうとう青林は駄目になってしまったの!」と思わず弱音を吐いてしまった。この人なら私の気持ちを分って下さると思って安心してしまったのか、つい口走ってしまった。…(略)…。奥さまはすでに青林倒産のことは知っていたようすで、「大変ね、辛いでしょう!」とおっしゃるなり、私の手を取って「がんばってね」と涙ながらに力づけて下さった。私も今までこらえていた涙の堰が急に切れてしまったように嗚咽が止まらなかった〉

 実は会社の危機に狼狽する俊吾氏を支えていたのは、久美氏(社員の退職金用の170万円は彼女の機転で漬物樽の中でした)でありました。自分が夫を支えなければと、倒産劇の間、終始気丈に振舞い続けていたのです。

 しかしこの直後に事態はさらに深刻な方向に向かいます。学校で息子の担任の先生に会って事情を説明しているさなかに放送で久美氏は呼び出されます。債権者の一人である友人が差し向けた弁護士が迎えにきており、逸見社長を安全な旅館に避難させたというのです。社長の姿が消えたと社内は騒然。この間にも支援者の顔をした友人は、憔悴した逸見氏に言葉巧みに迫り「譲歩担保の契約」のハンコをつかせてしまいます。紺屋の白袴とはよく言ったもので、法律書の出版元でありながら、そのハンコが何を意味するのかその時の逸見氏にはわからなかったのです。

 この契約に従って、社内に残っていた在庫はその日の夜中にごっそり持っていかれてしまいました。翌日の土曜日の朝、すっかり空っぽになった社内に怒った社員たちは、債権者たちに連絡しますがあとの祭り。この日、不渡りを出した青林書院は倒産しました。創立から8年後の9月16日でした。

 二日後の債権者集会には、100人近くの人が押しかけました。社員たちも債権者の味方をし、社長夫妻は針のむしろです。在庫はくだんの友人が抜け駆けして債権替わりに一人占めしたという噂はすでにもれており、不明をなじられます。しかし最大の債権者であるレコード会社は、元はといえば青林書院倒産の元凶であることが次第に明らかになり、債権者側も一枚岩にまとまらず、2時間の集会は結論の出ないまま終わりました。

 その後は債権者の委員長となった製本屋の社長が仕切り、債権は一律1割に圧縮するということにして、新会社再建の方向に向かいます。しかし、この委員長は不良編集長(倒産の2年前に自社の新刊を古書店に売って私腹を肥やしていたのを久美氏に目撃されていたのです)と結託して、紙型(活版印刷の原版です)をほかの債権者に内緒でこっそりと弟宅に運び出していたことがわかり、支持を失ってしまいます。こうして怒涛の3カ月を経て、青林書院新社の社長は、債権者の一人だった中央精版印刷社長の草刈親雄氏がつき、再出発の運びとなりました。

 以上、これでもかなりはしょって駆け足で見てきましたが、実に生々しい。債権者も生活がかかっていますから仕方ないのかもしれませんが、生き馬の目を抜くというか、仁義のかけらもないというか。

 しかし捨てる神あればなんとやらで、理解ある草刈社長に常務として迎えられた逸見氏は、再び本業の専門書でヒットをとばします。またもや新刊書の横流しに手を染めた挙句に、逸見氏追放に走った旧青林書院の社員たちは、草刈氏の逆鱗に触れて首がとび、3年後には見事社長職に返り咲きました。ちなみに倒産以降は銀座の豪遊はぴたりとやめたそうです。代わりに始めたのが骨董蒐集でして、こちらもおぼれると結構危険なように思えますが、逸見氏の眼利きは確かでありまして、南宋の名僧、無門慧開の数少ない自筆双幅を手に入れたのはこの後のお話であります。

shibataryota.jpg 一方、柴田良太のほうでありますが、昭和41年2月、準備中だった『月刊専門料理』の創刊を待たずに、羽田沖全日空遭難事故でこの世を去ります。絶筆は『月刊食堂』編集後記の「年齢と仕事」。41歳でありました。

 133名が亡くなったこの飛行機には、代理店の東弘通信社が札幌雪まつりに招待した多くの出版関係者が乗っておりました。美術出版社大下社長、誠信書房柴田社長、裳華書房吉野社長、共立出版南条社長、春秋社岩淵社長、内外出版社清田社長、啓佑社篠武社長、錦正社中藤社長、旭屋書店早嶋会長といったトップたちです。さらに白水社の篠田次長、池田書店の池田専務、有紀書房の高橋専務、大日本図書の藤原書籍部長など24名が犠牲になりました。この便に同乗していた東弘通信社社長は青林書院の取締役も兼ねておりまして、逸見氏も旅行に誘われていたのですが、まだ再建まもなかったこともあって遠慮したのが、二人の命運を分けました。もし俊吾氏が命を落としていたら、逸見久美氏が経営につき、『鉄幹晶子全集』などの与謝野晶子研究書の数々は生まれなかったかもしれません。なお逸見俊吾氏は平成14年に78歳で大往生されております。

 というわけで、柴田書店と青林書院と勁草書房の出版物を並べた企画棚を作りますと、その書店さんはビブリオマニアたちから一目も二目もおかれることまちがいなし(金沢や富山の紀伊國屋書店さんはとくに)。でも、両社の本はきっと相乗効果で売り上げが伸びますが、柴田の本だけ浮きまくること請け合いですけどね。

 ちなみに柴田書店はというと、良太亡きあと孝子夫人が急遽2代目社長に就きますが、昭和57年には創業家の手から離れ、10年前には民事再生をいたしました。しかし民事再生というのは法律でがっちり守られての建て直しなので比べるまでもありません。なにせ債権者説明会の真っ最中、すぐ下のフロアの写真スタジオで私はキャビアの食べ比べをしてましたから(笑)。

senmonryoti200204.jpg いえいえ、普段から社内でキャビアに舌つづみなんぞを打っていたから会社が傾いちゃったわけじゃないんですよ。キャビアだって撮影で使ったもんだし、私が自腹で買ったもんだし。落ち込むのもなんだから、いっちょうこいつで景気をつけてやろうと思いまして。それにしてもあの頃はイランのハタミもロシアのプーチンも外貨が欲しかったせいか、キャビアがかなり安く出回っておりましたなあ。

 その後、柴田書店は社長は代替わり、なんとか再建しました。一方アメリカが言うところのならず者国家のイランも、憲法をきっちり守ってハタミは大統領選再出馬を見送っておりますが、プーチンはいまだ現役です。世の中、先のことってまったく予想がつきませんね。カスピ海のチョウザメは禁漁となり、キャビアは再び編集者風情にはおいそれと手の届かぬ存在になりましたし。

 あ、ちなみに私は会社の新刊を古本屋に流したお小遣いでキャビアを買ったりしてませんからね。柴田書店の本は読者様に高い高いと言われてますが、学術書と比べればたいしたことなくて、危険を冒してまで横流しする旨みが薄いし…こう書くと妙にリアルでますますもって怪しいですが、断じてしておりませんたら。神保町を歩いていて挨拶されてもどこの古本屋さんだかさっぱりわからない、人の顔を覚えられない私ですから、こっそりと悪だくみをしようがないのですよ。だいいち机の上に財布を置きっぱなしで気づかないような間抜けな人間は、そんなに巧妙に立ち回れません。

  

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投稿者 webmaster : 2012年05月25日 17:23