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2012年11月28日
料理本のソムリエ [vol.48]
【 vol.48 】
法善寺横丁と落第横丁と
前回紹介した『専門料理』連載用の料理完成写真にえびの揚げ物みたいなのが写っているけど、今月号に見当たらないじゃないか!とお怒りになっている方はいませんか? 実はここには雑誌未収録の料理も写っております。というのも、品数も魚種も増やして単行本化すべくプロジェクトがひそかに動いておりまして。おかげで大阪に行く機会がめっきり増えました。しめしめ。
追加撮影の会場は法善寺横丁の「喜川」さん(喜の字はご存知の通り七みっつなんですが、許してね)の2階にて。この横丁もかなりお店が入れ替わりましたが、ぜんざい屋の「夫婦善哉」や「正弁丹吾亭」、そして店の軒先の織田作之助の歌碑は健在です。
(左)夫婦善哉
(右)法善寺の水掛不動
西鶴と文楽を愛し、戦後の闇市時代を走りぬけるように生きた“オダサク”こと織田作之助。『夫婦善哉』が有名すぎて人情物作家のようなイメージもありますが、ヒロポン中毒で逝った彼は太宰治同様、無頼派と目されております。来年は生誕100周年でして、中之島図書館ではそれを記念して先週まで特別展も開かれておりました。
大谷晃一がまとめた伝記『織田作之助 行き、愛し、書いた。』によると、彼は大正2年、生玉町前の生まれで、家業はすし店兼鮮魚店。父織田鶴吉は料理店「浮瀬」の元板前でありました。
浮瀬は日本の料亭の嚆矢であり、江戸時代の大阪で「西照庵」と並んで人気を二分した名店。寛永年間に清水寺の茶店としてスタートし、芭蕉や蕪村、馬琴や江漢、さらにシーボルトらオランダの商館員たちも利用しました。大きな貝殻を加工して酒器にした「浮瀬」や「鳴戸」、朱塗りの「七人猩々」などが名物で、わざわざそれを見るために全国から訪れる人が絶えません。その盛名を借りて、京都や江戸にも同じ名前の店が登場するほどです。
とはいうものの鶴吉が勤めた明治20年代の浮瀬はかつての勢いはありませんでした。店を切り盛りしていたのは福浦イハという女性だったとのことで、すでに店のオーナーは変わっていたのかもしれません。23年にイハは亡くなり、この頃店も閉じております。浮瀬200年の歴史については、坂田昭二氏の畢生の作『浮瀬奇杯ものがたり』でまとめられておりまして、また稿をあらためて。
ちなみに織田作之助の絶筆「土曜夫人」は、戦後間もない京都が舞台でして、大谷の伝記では、そこに出てくる貸席「田村」は「美濃吉」がモデルとされております。ただし、享保年間に三条大橋のたもとで開業した料亭美濃吉は、戦中は本店の土地建物を売却して給食事業に携わっておりました。粟田口で料亭を復活させたのは昭和25年のことです。昭和22年に読売新聞に連載された土曜夫人に登場するマダム貴子は、その旧美濃吉の施設を購入した大阪のやり手女将がモデルですからお間違えなきように。
さて時計のねじをいささか回しまして、昭和20年3月13日の大阪空襲の1カ月後の話。織田は4月22日号「週刊朝日」の「起ち上る大阪」で、空襲にもめげない千日前の喫茶店主と書店主を取り上げて、こう記しました。
<「あんた所が焼けたので、雑誌が手にはいらんようになったよ」
すると三ちゃんは、滅相もないという口つきを見せて、「何いうたはりまんねん。一ぺん焼かれたくらいで本屋やめますかいな。今親戚のとこへ疎開してまっけど、また大阪市内で本屋しまっさかい、雑誌買いに来とくなはれ」>
実際三ちゃんは戎橋通の表札屋の軒店に移転して、新刊書の本屋を開業しました。織田は終戦直後の9月9日号の後日談「永遠の新人」で触れております。
<ささやかな店で、書籍の数も中学生の書棚くらいしかないが、それでもこの店は大阪の南で唯一軒の新刊書を商う店だと、三ちゃんは自慢している>
この三ちゃんこそが、われらが波屋書房の2代目主人、芝本参治さんです。この一件、ブログのネタとして温めていたら「大阪春秋」の最新号でとりあげられちゃった。後塵を拝してちょっとがっかりですが、さらに掘り下げていきましょう。
実はこの文章は、意に沿わぬものだったと織田は1年後の「神経」の中で語っています。
<…その南が一夜のうちに焼失してしまったことで、「亡びしものはなつかしきかな」という若山牧水流の感傷に陥っていた私は、「花屋」の主人や参ちゃんの千日前への執着がうれしかったので、丁度ある週刊雑誌からたのまれていた「起ち上る大阪」という題の文章の中でこの二人のことを書いた。しかし、大阪が焦土の中から果して復興出来るかどうか、「花屋」の主人と参ちゃんが「起ち上る大阪」の中で書ける唯一の材料かと思うと、何だか心細い気がして、「起ち上る大阪」などという大袈裟な題が空念仏みたいに思われてならなかった。…(略)…ところが、戦争が終って二日目、さきに「起ち上る大阪」を書いた同じ週刊雑誌から、終戦直後の大阪の明るい話を書いてくれと依頼された時、私は再び「花屋」の主人と参ちゃんのことを書いた。言論の自由はまだ許されておらなかったし、大阪復興の目鼻も終戦後二日か三日の当時ではまるきり見当がつかず、長い戦争の悪夢から解放されてほっとしたという気持よりほかに書きようがなかったので「花屋」のトタン張りの壕舎にはじめて明るい電燈がついて、千日前の一角を煌々と照らしているとか、参ちゃんはどんな困苦に遭遇しても文化の糧である書籍を売ることをやめなかったとか、毒にも薬にもならぬ月並みな話を書いてお茶をにごしたのである。
そして、そんな話しか書けぬ自分に愛想がつきてしまった。私は元来実話や美談を好かない。歴史上の事実を挙げて、現代に照応させようとする態度や、こういう例があるといって、特殊な例を持ち出して、全体を押しはかろうとする型の文章や演説を毛嫌いする。ところが、私は「花屋」の話や参ちゃんの話を強調して、無理矢理に大阪の前途の明るさをほのめかすというバラック建のような文章を書いてしまったのだ。はっきり言えば、ものの一方しか見ぬリアリティのない文章なのだ>
起ち上る大阪というタイトルも「文章を書く人間の陥り易い誇張だった」とし、自己嫌悪の念が湧いて来たとまで告白する織田作之助。自らの一言一句をとぎすまそうとする気迫が伝わってきます。歴史人物になぞらえたり威勢のいい文句であおったりで、軽々しく思いつきのご高説をふりまく今のマスコミや政治家は爪の垢でも煎じてご賞味あれ。
さてそんな落ち込み気味の織田の前に、三ちゃんならぬ参ちゃんは三たび現れます。
<声のする方をひょいと見ると、元「波屋」があった所のバラックの中から、参ちゃんがニコニコしながら呼んでいるのだ。元の古巣へ帰って、元の本屋をしているのだった。バラックの軒には「波屋書房芝本参治」という表札が掛っていた。
「やア、帰ったね」
さすがになつかしく、はいって行くと、参ちゃんは帽子を取って、
「おかげさんでやっと帰れました。二度も書いてくれはりましたさかい、頑張らないかん思て、戦争が終ってすぐ建築に掛って、やっと去年の暮れここイ帰って来ましてん。うちがこの辺で一番はよ帰って来たんでっせ」と、嬉しそうだった。お内儀さんもいて、「雑誌に参ちゃん、参ちゃんて書きはりましたさかい、日配イ行っても、参ちゃん参ちゃんでえらい人気だっせ」…(略)…お内儀さんは小説好きで、昔私の書いたものが雑誌にのると、いつもその話をしたので、ほかの客の手前赤面させられたものだったが、しかし、今そんな以前の癖を見るのもなつかしく、元の「波屋」へ来ているという気持に甘くしびれた。本や雑誌の数も標札屋の軒店の時よりははるかに増えていた。
「波屋」を出て千日前通へ折れて行こうとすると、前から来た男からいきなり腕を掴まれた。みると「花屋」の主人だった。
「花屋」の主人は腕を離すと妙に改まって頭を下げ、
「頑張らせて貰いましたおかげで、到頭元の喫茶をはじめるところまで漕ぎつけましてん。今普請してる最中でっけど、中頃には開店させて貰いま」
そして、開店の日はぜひ招待したいから、住所を知らせてくれと言うのである。住所を控えると、
「――ぜひ来とくれやっしゃ。あんさんは第一番に来て貰わんことには……」
雑誌のことには触れなかったが、雑誌で激励された礼をしたいという意味らしかった>
美談が嫌いとワルぶっているオダサクですが、心底うれしかったのだと思いますよ。『夫婦善哉』で活写されているように、彼の目は大阪の庶民の暮らしに注がれておりました。
ちなみに織田作之助全集には収録されておりませんが、昭和20年5月20日の東京新聞には「東京サン!」という短文を寄せております。3月の空襲で焼かれた東京の安否をラジオ局のコールに託して気遣い、いまラジオドラマ制作中の大阪の役者は悪条件下で頑張っているから東京も負けるなという趣旨のこの短文も、彼にとっては意に染まぬものだったのでしょうか…。私はこれもまた彼なりの優しさの表れだったと思うのですが。
実は彼は昭和12年から13年にかけて本郷で下宿しており、東京には知己もおりました。お気に入りだったのが、現在の本郷郵便局脇にある落第横丁の「ペリカンレストラン」です。学生街らしくおでん屋(もちろん震災後に関西から進出してきた関東煮屋ではありません)や喫茶店などが並ぶ横丁の中で異色だったこの店、太宰治や武田麟太郎など文学青年たちが出入りしておりましたが、昭和14年のある日突然古本屋さんに模様替えしまして、常連客を驚かせております。店主の品川力氏は内村鑑三研究で知られ、誤植に厳しく、その著書『本豪落第横丁』では冒頭から「書物に索引を付けない奴は死刑にせよ」なんていう出版社が震え上がるような警句を吐く読書人でありました。
(左)落第横丁入り口の看板
(右)現在の落第横丁
織田作之助が昭和22年に取材で訪れていた東京で息を引き取ったとき、品川氏も骨を拾いました。そんな品川氏も平成18年に亡くなり、今はペリカン書房の看板が残るのみです。 織田が下宿していた秀英館はとうになく、東京の落第横丁は正直なところただのありふれた路地で、当時を偲ぶよすがはありません。
いっぽう法善寺横丁はといいますと、今も水掛不動は苔むしておりますし、織田作之助の碑だけでなく、岸本水府の句碑や藤島恒夫の「月の法善寺横丁」の歌碑などがあちこちに並び、かつてをしのばせてくれます。もちろん空襲で焼けているので戦前のままではありませんし、平成14年9月、15年4月と近年立て続けに二度の火災に見舞われましたが、石畳の風情は失われておりません。
何度でも起ち上る大阪はたくましい。「せやろ、せやろ、けッけッけッ」と上機嫌なオダサクの独特の笑声が聞こえてきそうです。
投稿者 webmaster : 20:17
2012年11月19日
『専門料理2012年12月号』 編集後記より
『専門料理2012年11月号』
発行年月:2012年11月19日
判型:A4変 頁数:172頁
特集:メインディッシュの肉料理50
「献立の花形、肉のメインディッシュをドカンと50品掲載!」
「『エスコフィエを作る!』では歳末の特別編として料理を再現してもらいました」
冷えるねぇ。こないだまでオープンテラスでのランブルスコがおいしかったけど、今は暖房の効いた店内でホットワインが飲みたいよ。
ほんと秋をすっとばしていきなり冬になった感じだよね。多くのレストランはこれから年末にかけてが1年でいちばん忙しい時期。クリスマス、忘年会などイベントも目白押しです。
そこで今月の特集は「メインディッシュの肉料理50」。献立の花形でもある肉の主菜をドドンと50品集めました!
トップシェフの肉料理がこれだけの数並ぶと、さすがに壮観だねぇ。
ご協力いただいたシェフの皆さんには、この場を借りてお礼申し上げたいと思います。ありがとうございました!
バラエティ豊かな肉料理が並ぶ中、とくにインパクト大なのが、河井健司シェフ(アンドセジュール)の「ウズラのトゥルトから」(写真1)。詰めものをしたウズラ8羽を生地で包んで焼き上げた品で、ホールケーキのような見た目も迫力満点! パーティの主役になること間違いなしです。
ウズラが顔をつけ合わせて……誕生日ケーキとしてこの品が出てきたら、子どもは泣くだろうなぁ。
余計な妄想しなくていいから!
牛肉、鴨、ハト、ウズラ、豚、仔羊、ウサギ……素材ごとに料理を見ていくと、それぞれの素材の仕立ての傾向なんかも見えるのが楽しいよね。
たしかに。牛肉だと、最近は熟成肉を使うシェフが増えているのが特徴。今回は森 茂彰シェフ(moRi)と杉本敬三シェフ(レストラン ラ フィネス。写真2)が熟成肉を使っていました。
そうそう、やまけんさん(山本謙二氏)が中心になって年に1度開催している「赤肉サミット」の今年のテーマも「赤身肉と熟成」だったね。
約30人のトップシェフに集まってもらい、エサと品種の違う5種の赤身肉に同じ熟成をかけたものを食べ比べたんだけど(写真3)、熟成肉とひと口に言っても風味や触感は千差万別だなぁと思いました。熟成についての基礎知識とともに当日の様子をレポートしているので、是非この記事を参考に、好みの熟成肉を探してみてください!
2012年最後の号として、連載記事も歳末の特別編に
そして今月号は2012年の12月号。年末の総集編として、連載の「エスコフィエを読む」で取り上げた品を、脇坂 尚シェフ(サラマンジェ ド イザシ ワキサカ)に再現してもらいました。
「オマール・ア・ラメリケーヌ」に「ブロシェのクネル リヨン風」(写真4)、「ベカスのサルミ 冷製」など、どれも威風堂々、力強いよね。
ここでは現代でも残っている料理を中心に取り上げたんだけど、工程や盛りつけ、解釈などに違いがあり……わずか100年くらいでこれだけ大きな変化があったんだなと実感しました。
連載「フランス料理の科学」では、最終回の特別編として下村浩司シェフ(エディション・コウジ シモムラ)に新作4品を作っていただくとともに、川崎寛也博士と「料理と科学の可能性」についての対談もしてもらいました。
12月に入って本格的に忙しくなる前に、じっくり読んでもらいたいよね。
投稿者 webmaster : 11:26
2012年11月14日
料理本のソムリエ [vol.47]
【 vol.47 】
波屋書房のカクテル本を訪ねて
実は前々回に「まったり」の話をアップしたあと、ちょっと反省したのですよ。まったりの使い方について考察するのは東京スカイツリーの足元なんかより、京都タワーや通天閣のほうがずっとふさわしいんじゃないかって。このブログでは以前にもおでんの大阪起源説や震災後の関東煮東漸説に冷水をぶっかけたりしているし(vol39)、大阪人からいらぬ反感を買ったんじゃないか。フライドチキンの創業者像と一緒に戸板にくくりつけられて道頓堀に放り込まれたりしないかしら…。
わが身の安全のために弁明しますと、とんでもない誤解ですからね。私は以前から大阪での取材が多かったこともありまして、彼の地に対する愛はハンチクなものではありませんぞ。その証拠にほら、写真は現在『専門料理』で連載中の「魚介 浪速割烹」の撮影を見学したときのもの。上野修三さんとそのお弟子さんたちの調理風景ですね。こっちが完成した料理です。雑誌撮影にしちゃ会場が広くないかって? そりゃもちろん、これからみんなで試食するからですよ? だから私がこうして参加してるんじゃないですか。このときの料理は来週発売の12月号に掲載されますのでお楽しみに。
撮影はなんばの一心寺の研修会館で午前中からお昼にかけて。終わった後はぶらぶら大阪見学です。黒門の市場といい道具街といい、大阪はどこに行くのも近くて歩いていけるのがいいですね。ここまできたら料理本のメッカ、千日前の波屋書房さんにも寄っていかなきゃね。
なんばグランド花月のすぐ近くのお店の中に一歩足を踏み入れればご覧の通り。マンガや風俗雑誌は見当たらない代わりに、右の棚も左の棚も料理本がずらり。お店のほぼ半分を料理本が占めておりまして、その在庫の多さは半端ではありません。おまけに家庭向けレシピ本は奥の方にちょっと決まり悪そうに並んでいる一方で、前のほうでどーんと幅を利かせているのはプロ向けや食文化を扱う読み物です。料理関係の文庫や新書ばかりを集めた棚なんて、よそではなかなかお目にかかれませんよ。
ちなみに小社では一昨年の創業60周年記念に過去の書籍の中から10種類を復刻し、通常の流通ルートには乗せずに限定販売したところ、出版業界専門紙「新文化」のニュースに取り上げられるなど業界内では話題になったりしたのですが、この復刻本を扱っていただいたのは丸善、ジュンク堂と並んで波屋書房さんのみ。これだけでも、そのすごさがお分かりいただけるでしょ。
なお新文化の連載コラム「本のソムリエ・ロックスター団長がいく」(ちなみにこのブログのタイトルの元ネタです。ネーミングセンスが悪いとかいうと団長に言いつけますからね(笑))でも、波屋書房さんは取り上げられております。
<難波の繁華街を食べ歩いていると、にこやかに手を振る紳士を発見! その方は、芝本尚明さん。大正8年創業の老舗「波屋書房」の三代目店主です。さっそく店内に入ってみてビックリ! 敷地約30坪のスペースの大部分が「料理書」なんです! その理由を聞いてみると「20年前くらいに、店内の5分の1くらいの棚を使って料理書フェアをやってみたところ、予想以上の好評。とはいえ、料理書フェアのために売れ筋の風俗誌を減らしたため、収益面でのデメリットもありました。今後どうするか悩みましたが、お客様と会話しながら楽しく仕事できたことが嬉しかったので、そのまま料理書を置き続けることに決めました」とのこと>
実はこの料理書フェア、当社の温井営業部長(当時)がご案内して芝本さんとFOODEX(国際食品・飲料展)に出掛けたのがきっかけ。そこで販売していた柴田書店ブースにヒントを得て手がけられたものなんですって。えへん。
<それまでの波屋書房は、純文学との関わりが深く、『辻馬車』ゆかりの書店ということで有名でした。『辻馬車』とは、藤沢桓夫氏を中心とした大阪文学を代表する作家によって作られた同人誌です。この時代の名残りは、現在は波屋書房のブックカバーに引き継がれています。時の人気画家・宇崎純一氏作で、藤沢氏の自筆文字も印字されている貴重なものです。レトロな雰囲気がかわいくて、一目惚れしました! カバー単品で買いたいくらいです(笑)>
このように波屋書房さんは大阪文化の発信地として、文学研究の世界ではよく知られた存在です。ただね、ときどき「かつて文芸で知られた」なんていう取り上げ方をする輩がいるのがちょっと気に食わない。なんだか文芸のほうが偉くて料理本はずっと格下だとか思っておられませんか?
ざーんねんでした。波屋書房さんと料飲業界の縁は創業時からなのです。大正時代に盛名を馳せ、“西の夢二”とまでうたわれた宇崎純一氏の弟の祥二氏が波屋書房の創業者。挿絵画家“スミカズ”の活躍はかなりの間忘れられてきましたが、近年再評価が進んでおりまして、今発売中の雑誌「大阪春秋」148号にその最新成果が詳しく載っております。
戦前の波屋書房は出版業も行なっておりまして、のちに『飲食事典』を著す本山荻舟の『江戸前新巷談』など幅広く手がけておりましたが、その中に『家庭で出来るコックテールの作り方』があります。今の辻学園の前身の大阪割烹学校編。純一氏はここでスケッチの授業を担当されておりまして、学校の広報誌『婦人之世紀』のイラストも担当し、生徒さんたちの修学旅行に同行したりと深く関わっていたのです。
これは気になるぞ。どこかの図書館が所蔵していないか探してみたら、大阪府立大学にありました。もちろんこれは行かないわけには参りますまい。
広ーい構内を抜けまして図書館にたどりつきますと、おおっ、入り口に水島卜也の写本が展示されている! 水島流は江戸時代の礼法の流派のひとつで、式庖丁に関する資料のようです。礼法は日本料理についても深く関わっておりまして、その影響は研究が待たれる分野であります。
その奥には『料理の起源』で知られる民族学者の中尾佐助教授のコーナーも。うーん、料理との縁が深いですね。実は阪府大は数年前に大阪女子大学を併合しまして、その蔵書をそっくり引き継いでおります。大阪女子大学は大正時代に女子専門学校として開校されており、貴重な料理関係書も多く所蔵しているのです。
さて目的の『家庭で出来るコックテールの作り方』はといいますと、江戸時代の貴重書ではありませんから簡単に出納できましたが、図書館の蔵書なのでカバーがはずされておりました…。うーん、この習慣、本の作り手側から言いますとなんともさみしい話でして、どうにかならないもんですかねえ。なにせ装丁は宇崎純一によるものなんですから。もっとも扉のイラストもこの通りスミカズ調で、小さいながら粋な造りです。約200種類のカクテルのレシピが載っておりまして、サワーやポンチなども網羅しています。
おやおや、カキやハマグリのコックテールなんてのも載っておりますよ。
<オイスター・コツクテール(OYSTER COCKTAIL)
牡蠣のむき身の冷やしたもの(小) ………………………六個
トマトキヤツプ …………………………………………中匙一杯
ウシターソース ……………………………………………三滴
西洋酢 (ビネガー)…………………………………………二滴
レモンの搾り汁 ……………………………………………少量
食塩…………………………………………………………少量
胡椒…………………………………………………………少量>
トマトキヤツプはトマトキチヤツプの誤植で、ケチャップのことですね。シャンパングラスに入れて “ゆるやかにセーク(スプーンでかきまはすこと)”して小さじを添えてすすめるそうです。これはカクテル違いのような気もするけど、しゃれかしら?
ただ、例の五色の酒(vol12)のレシピを期待していたのですが、残念なことに載っておりませんでした。宇崎純一氏はモダンな文化人で、大阪のカフェの先駆け「キャバレー・ヅ・バノン」の常連でもありました。ここでも五色の酒は名物だったのですが…。
なお弟の祥二氏が波屋書房を経営していたのは昭和4年までで、店は番頭だった芝本参治さん(尚明さんのお父さん)が引き継ぎました。というのも祥二氏は29歳の若さで亡くなったからです。
ことの発端は、波屋書房発行の雑誌『辻馬車』に、編集担当の武田麟太郎がカフェの女給の橋本スミ名義で、「無政府主義者は革命革命と威勢はいいが実際はカフェで騒ぐばかりだ」と揶揄する詩を載せたため。怒った彼らは祥二氏を自宅近くで待ち伏せ、橋本を出せと問い詰めます。「知らない」(そりゃ、変名ですから。同人仲間だって誰の文章かわからなかったくらいです)と答えたために激昂した無政府主義の青年たちに袋叩きにあい、その傷が元で2年後に亡くなってしまったのです。まったくもってひどい話です。
あ、最後に断っておきますが、いま大阪府立大学の図書館に行かれても水島卜也の写本は飾られていないと思います。だって、上野さんの連載は雑誌掲載の1年前に撮影を終えておりますし、図書館に行ったのも今年の春。すみませんこのブログ、ネタはずいぶん前から仕込んでいるんですがなにぶん遅筆なもんで。次はあんまり間が空かないようがんばります。
投稿者 webmaster : 13:33
2012年11月12日
『美しい飴細工』 基本と応用 担当者編集者より♪
『美しい飴細工』
著者:サントス・アントワーヌ
発行年月:2012年11月15日
判型:B5変 頁数:160頁
美しい飴細工の写真が撮れた
撮影は2010年の4月から開始しました。
お菓子とは勝手が違い、ベテランの高橋栄一カメラマンも私も最初は戸惑うことばかりでした。
仕上がった作品はもちろんですが、サントスシェフはプロセス写真のつやや透明感まで要求しました。
これがむずかしい。
ライトは通常固定し、一定方向からの光で撮影します。なぜならばいちいち動かすと、光量や光のまわり具合が違ってくるので、光量計でそのつど計らないと写真が撮れないからです。しかし、そんな時間はありません。つくる手は止められないことの方が多いからです。しかも料理やお菓子のように予測が立ちません。ちょっとした角度でつやが見えたり見えなかったり。
それに、あらかじめ作業と動く範囲を聞いて撮影をはじめても、あらら、サントスシェフは光がおよぶ外へ。「ええ、ちょっと待ってよ」とあわてる高橋栄一カメラマン。でも、飴細工は途中で止めたら情態が一気に悪くなったりするので、シェフも手を止めたくはありません。
でも、なんとかつやや透明感を出さなければ…。
カメラマンも格闘しました。
「こっちに立ってください」
「飴をライトに向けて!」
「そっちじゃない、こっちです」 などと声が飛びます。
そんな具合でお菓子よりもはるかに制約が多い撮影でした。撮り直しをすることもしばしばでした。
2、3回撮影するうちにお互いに徐々に少しずつ慣れてはいきましたけれど。
そんなこんなの撮影でしたが、それでも...
きれいなんです、仕上がりが。
ビューティフル、セ・トレ・ボン!です。
目を見張るほどの美しさ。
その美しさの理由が撮影を重ねていくごとにわかってきました。
それはサントスシェフが
日本人よりも日本人らしい繊細さを持っている
ことによります。
撮影日のお昼はお店のパニーニだったりしたこともありましたが、おもしろいのは冬場に鍋焼きうどんをシェフが好んで食べたことです。
いえいえ、温かくなってもざるうどんを注文したり。
和食も好きだとのこと。
フレンチレストランの料理でも繊細な味は好きでも、こってりした濃い味の料理はあまり得意じゃないとか。舌もとても繊細にできているわけですが、これがサントスシェフの感性そのものに表われているのです。
撮影の時に教えてくれるポイントも「分厚いのはダメ。ぼてっとしたらきれいじゃないね」とか、「向きをアットランダムにした方が動きが出るんだよ」など、美しさを追求する点はしっかり主張。
これってどちらかというと日本人的じゃない? としばしば思ったものです。
そしてもうひとつの理由として、
もっときれいにというあくなき探究心と工夫
がサントスシェフにはあるということによります。
3つあるリボンの組立ての撮影時に、シェフは3つそれぞれに違いをつけて仕上げました。
普通に並べて積み上げて接着する方法、縦向きにつける仕方、また向きをいろいろ変えて動きをつけ手法など。
違いをつけて仕上げることで、美しさの表現の差がわかります。
≪リボンA≫ 一色で、引いたものと引かないものを合わせる。
≪リボンB≫ 両サイドにラインをつくり、縦に組み立てる。
≪リボンC≫ 3色でつくり、ランダムな斜め向きにして組み立てる。
いつももっときれいに、もっと楽しくと工夫しながら仕上げるサントスシェフの仕事は表現の宝庫です。まるで少年のように飴細工に魅了されて楽しんでいます。
じっくり見比べると、ただ美しいだけじゃない、
サントスシェフのこだわりが見えてくると思います。
投稿者 webmaster : 10:55
2012年11月02日
日本語版とは違った楽しみ方!
『SALAD (英語版)』
著者:村田吉弘
発行年月:2012年11月5日
判型:A4 頁数:176頁
本書を見たら、写真のダイナミックさと美しさ、同時に「SALAD」という単語からは想像もできないような斬新な盛り付けや色鮮やかな料理の数々に驚かれることでしょう。
すでに日本語版を手に取っていただいた方も、英語版はサイズがひと回り大きいA4判になったこと、ハードカバーになったことで、日本語版とはまた違った楽しみ方をしていただけると思います。
常に世界を視野に入れ、日本料理を海外へ発信していくことに奔走している著者。著者は海外からのシェフとの交流も積極的に行ない、日本料理を伝えていくこともしています。今回推薦文を書いていただいたのは、著者と交流のある2人のシェフ。今世界中で最も注目を浴びている、イギリスの「ザ・ファット・ダック」のヘストン・ブルメンタール氏とデンマークの「ノマ」のレネ・レゼピ氏です。
お二人の推薦文の言葉を一部ご紹介しましょう。
「村田吉弘氏は、現代日本の美食文化の先駆者の一人です。私が彼に会ったのは、京都で開かれた“うま味”についてのカンファレンスです。彼はだしでうま味を最大限に活用するための優れた技術をデモンストレーションで見せてくれ、以来、私はその手法を使っています。吉弘氏は技術があり、知識があり、そして独創的です。あなたが日本料理に出会うことがあるならば、その時には彼が間違いなく最良のガイドです。 この本においては、吉弘氏は美しく、新鮮で、エレガントで、独創的な日本料理のアプローチを示すような素晴らしい料理をつくりだしています。これらの料理は、あなたの味覚とあなたの想像力の両方を刺激するものになるだろうと確信しています。」(ヘストン・ブルメンタール氏)
「2009年の冬に、私は京都の菊乃井の厨房でしばらく過ごしました。村田さんが努力を惜しまず妥協を許さない姿勢でいることこそが、彼が自身のコミュニティーや日本国内にとどまらず、世界的にも特別な立場にいるのだ、ということを私はそこで目の当たりにしました。彼は天性のリーダーなのです。この本では、村田さんが積極的に料理の最前線で取り組み続けていることがわかります。(途中略)私は彼からこの推薦文を書くように頼まれたとき、こうした京都での私の時間における記憶を思い出しつつ、喜んで引き受けたのです。(途中略)私はこの本が出ることをとても心待ちにしています。私は村田さんが、この本に載せた料理の数々を通して、彼が自分の店で普段行なっている料理への繊細な心くばりや料理への想いが伝わると確信しています。」(レネ・レゼピ氏)
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『菊乃井・村田吉弘 SALAD』
著者:村田吉弘
発行年月:2012年8月24日
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投稿者 webmaster : 15:17