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2013年03月05日
料理本のソムリエ [vol.53]
【 vol.53】
松花堂弁当のすみっこをつついてみました
前回、松花堂弁当の謎がホームズばりに明快に解決されるはずが、証言が錯綜しているうえに松花堂の所有者がいろいろ変わる間になんだかよくわからなくなってしまったということがわかりました。どちらかというと芥川ばりの藪の中です。煙草盆とお重は同じ十字の仕切りがあっても別物なのに混同されてどっちが松花堂弁当の元になったのかがわからないのと、オリジナルから写した後世の作があるために話がややこしくなったのと、証言者の記憶があいまいだったり息子さんの伝聞だったりでバイアスがかかっているせいだと思われます。誰かがどっかをまちがえているのは確かです。
あ、それからお気づきの方もおられるかもしれませんが、現在Wikipediaの松花堂弁当の項にはこの推理とはまったく違う由来が書かれています。これはおもに3人の執筆者によるものです。
まず2008年11月30日に、国宝級の本をたくさんお持ちのような「書陵部」なるうらやましいハンドルネームの人物が次のように書き込みました。
<昭和の始め(昭和8年(1933年)頃とされている)、代々式部卿を務めた貴志宮家の大阪(桜宮)邸内の茶室「松花堂」で茶事が催された折、日本屈指の名料亭である大阪の「吉兆」の創始者である湯木貞一が、貴志家の当主、貴志奈良二郎(二代貴志泉松庵)より、この器で茶懐石の弁当をつくるように命じられ、後にその事が話題となり、松花堂弁当の名が広まった>
ちょっと見はもっともらしい説明ですが、「式部卿を務めた貴志宮家」っていうのが何のことかわかりません。いったいどこの宮様で? また昭和の初めなら貴志奈良二郎は家業を継いで彌右衛門(二代貴志彌右衛門)を名乗っているのに、「泉松庵」という号にしか触れていないのはなぜなのでしょう…。
まあ、これだけなら西村芳次郎と貴志奈良二郎とを取り違えただけのようにも読めますが(どっちもジロウだし)、12月1日にはさらに次の一文が足されました。
<湯木は、当時他家から松花堂弁当の依頼を受けると、その都度貴志家への挨拶を怠らなかったという。>
心温まる話みたいに結ばれていますが、同じ日に書き込まなかったのがうさんくさい。あとから思いついたんじゃないの? それに湯木氏は律儀に何度も挨拶に通ったにもかかわらず、自著ではころっと忘れてしまったとしたら、かなりそそっかしいように思えます。
そんなこんなで放っておったのですが、先月久しぶりにWikiのこの項目を開いたら、さらにややこしいことになってました…(呆然)。昨年8月30日に式部卿云々という記述がおかしいことに気づいた人がいて、よせばいいのにここだけカットされてました(ほかのところは大丈夫なの?)。そして11月14日と15日に二人の人物によって<…この器で茶懐石の弁当をつくるようにと命じたのがはじまりである>のすぐ後に出典と新情報が書き加えられています。今度の人たちはハンドルネームを使っておらず、203.139.219.58と124.212.169.61というIPアドレスしかわかりません。もっとも誰かがパソコンを遠隔操作して書き込んだのかもしれませんが(笑)。
<(昭和8年「西田幾多郎日記」 太田喜二郎「絵茶會記」より)。その後、毎日新聞が<吉兆前菜>として取り上げたことで話題となり、松花堂弁当の名が広まった。>
これまた真実味たっぷりの書きぶりですが、西田幾多郎は日記を1日1行くらいしか書かないうえに三日坊主の気がありまして、毎年正月になると思い出したように再開しては挫折の繰り返し。昭和8年は5月で放り出しております。そもそも貴志氏はどの年にも登場しておりません。
「絵茶会記」っていう文献(初めの書き込みでは「茶会の画」だったのですが、16分後にタイトルを改めて投稿し直しています。なぜ「会」の字だけ旧字なんだろう?)は、この書き方だと西田幾多郎日記に引用されているみたいにもみえますが、もちろん見当たりません。ちなみに洋画家の太田喜二郎も日記を5冊残しておりますが、ベルギー留学時代の明治から大正の初めにかけてのものしかないようです。
この投稿が困るのは、何から何までデタラメというわけでもなさそうなところ。貴志奈良二郎は宮様ではなくて紀州の武士の家系なんですが、確かに大阪市・桜宮の彼の邸内には松花堂写しの茶室がありました。前回でも触れました数寄屋建築研究者の中村昌生氏の調査によると、心斎橋の樋口十郎兵衛宅に移った初代貴志彌右衛門が、土蔵に残されていた廃材が松花堂茶室と知り、明治25(1892)年に肥後橋南詰に再建し、同32(1899)年に桜宮へ移築したそうです。また太田喜二郎は西田幾多郎の娘に絵を教えており、奈良二郎の親友でもあります。正座のできない太田に二つ折りの座布団をあてがって茶室でもてなし、お茶のファンにしたのは、奈良二郎その人です。これらの登場人物が揃う茶会というのは、けっして不自然ではありません。
こりゃもうアームチェアディテクティブではラチがあかないぞ、ワトソン。事件は現場で起きているんだっ。大阪のもう一つの松花堂に行ってみよう。GOGO!
淀川ほとりにあった貴志家の邸宅は大阪市に寄付されて、今は大阪市桜宮会館となっております。JRの大阪城北詰駅の近く。この辺はお屋敷町だったようで、地図を見たら藤田邸跡庭園の隣あたりかも。5時の閉園間際に飛び込んできょろきょろしていると、壁の向こうに和風建築みたいなの発見! と思ったら、大阪市公館庭内のあずまやでした。こちらはかつては「大阪市長公館」だったのですが2007年に改名して「長」が取れたそうで、母屋の洋館のほうでは1日1組限定のウエディングも行なっているそうです。ちょっと民業圧迫な気もしますが、さすが大阪市、稼げるものなら何でも使おうってわけですね。公館から追い出されちゃったから市長は永田町あたりでうろうろしているのかあ。
とにかく広くて迷っていたら、川沿いの桜宮公園で何か黒いものをうっかり踏みそうに…。カラスの死体だ! これはこの件から手を引け、という警告かっ! ほうほうの体で公園から転げ出たら、ようやく桜宮会館らしき場所に…。な、ない! 建物があとかたもなく消えている! すでに彼らの手がここまで…。
実は隣の太閤園が拡張してブライダル施設を建設中でした。昨年の『月刊ホテル旅館 12月号』のニュースにちゃんと取り上げられておりまして、知ってて行きました(笑)。というか、これまで非公開だった松花堂も、工事中なら塀がとっぱらわれて外観が見られるかもと思って行ったんですが、危ないから解体してどこかで保管中のようです。そりゃそうだ。9月開業予定の新施設の庭の中に復元されるそうで、もうしばらくのご辛抱。
ところで、貴志奈良二郎の長男である康一は、戦前を代表する音楽家でありました。大正15(1926)年に甲南高等学校在学中の17歳で単身渡欧し、スイスの国立音楽院とベルリン国立高等音楽院で学び、20代の若さでベルリンフィルを指揮。さらに映画会社を興して、日本が独自開発したカラー技術や魚眼レンズを使った前衛的な作品を撮るなど、八面六臂で活躍した華々しい経歴の持ち主です。『貴志康一 永遠の青年音楽家』など彼の評伝や研究が刊行されておりますし、彼が作曲した作品も『ベルリンフィル ― 幻の自作自演集』『竹取物語』(湯川秀樹がノーベル賞を受賞したストックホルムの晩餐会で演奏されました)など、いくつもCDに焼かれております。松花堂弁当の話はこうした貴志康一ファンの間から出てきた逸話なのでしょうか…。
貴志家は新聞の長者番付にものる資産家で茶人でもありますから、吉兆さんがお出入りしていたのはありえる話ですが。
貴志康一は、日本にヨーロッパの名器の音を知ってもらおうとストラディヴァリウスを購入したり、日本とドイツを行き来して映画上映や演奏会を行なうなど、日欧の文化交流に努めましたが、それにかかった莫大な資金の一部として実家の支援もあおいでいます。奈良二郎は甲南女子高等学校の教頭として学校教育に尽くし、桜宮が工業化して空気が悪くなると子供たちのために芦屋に移ったほど家庭を大事にしていました。息子の型破りにスケールの大きい夢の困難さを案じつつ、その実現を応援し続けました。
康一は昭和6年9月27日号の『週刊朝日』で、<…シリング氏と画家(中略)のラファイエル・シュスター・ヴォルダン教授と僕の三人で一度日本の音楽(勿論日本の楽器により)を用い日本の脚本で純日本式のオペラを造り上げることを子供のように空想したことがあった。第一舞台は歌舞伎風に例えば青松がありその前にサッパリとした日本の座敷、深くシンミリとした寺院、…(中略)…音楽も勿論平均律などの東洋独特なものを使うなど…>と述べており、かねてよりヨーロッパの地で音楽と舞台を通じて日本を表現することを夢みていたことがわかります。
さらに10月25日号の『週刊朝日』では<日本を紹介する又真に理解させる最善の方法はトーキーだと思う><日本のフィルム界を代表する松竹、日活などよろしく今後は海外に発展し真の日本文化、風俗、自然を紹介していただきたいものだ>と述べていたのですが、もはや他人をあてにしていられないと思ったのか、のちに自らメガホンをとって日本を紹介する芸術映画を作り、例の昭和8年にはドイツで上映しております。タイトルは「鏡」で、桜宮の松花堂も登場します。平成13(2001)年に国立近代美術館フィルムセンターの職員がドイツに残されていたフィルムを発見して里帰りしておりまして、昨年10月にNHKの「探検バクモン」の「禁断の映画パラダイス」(前編)にて一瞬取り上げられています(有料ですが10月までNHKオンデマンドで見られます)。映画の導入部にあたる、ひさしぶりに日本に戻った青年(これはベルリンで演劇を学んだ康一が演じております)と父が食事をしているカットが流れておりました。丸い折敷(松花堂弁当ではありませんよ)の上にお造りがはっきり見てとれまして、ほかに金襴手のような皿に焼物らしきもの、ご飯のおひつ、お椀などが並んでいて、とても豪華。これまた吉兆さんの出仕事だとしたらちょっと面白いですね。いずれにせよ、本格的な日本料理が動画で海外に紹介された走りではないでしょうか。
なお太田喜二郎はひんぱんに親友の奈良二郎と手紙のやりとりをしており、中には近況を記した絵手紙もありました。淡交別冊の『近代の数寄者―続茶人伝』には、スイスのシュルス夫妻を招いた茶会を描いた「茶会帖」(絵茶会記ではありません)が掲載されています。この中に四角い折敷に筒向と汁、ご飯が載せられた絵がありまして、その折敷が深くてまるで縁高のよう。Wikiの御仁はこれをうろ覚えで松花堂弁当と勘違いしたのかも? もっともこの絵の茶会は昭和2(1926)年5月2日のことで、昭和8年ではないのですが。
日本とドイツの架け橋となるべく奔走した康一は昭和11(1936)年6月に盲腸炎の悪化で倒れました。ところがその看病での無理もたたってか、奈良二郎のほうが持病の丹毒に肺炎を併発して11月に先立ってしまいました。父の死の前月には妹の照子も出産直後に亡くなっており、愛する家族を二人も失くす不幸の中で闘病生活を続けた康一は、翌年後を追うようにして亡くなりました。28歳の若さでありました。
もし昭和8年に松花堂弁当箱の製作を奈良二郎が命じていたとしたら、湯木氏が挨拶に貴志邸に通ったのはたった4年弱のできごととなります。こうしてみると、なんだかWikiの投稿はモリアーティ教授のいたずらのような気がいたします。
それに私には、もうひとつ心配ごとがあります。実は戦前の大阪には、桜宮のほかに生玉町にも松花堂が存在したことが知られています。大阪で「浮瀬」と人気を分けた料亭「西照庵」(vol50に載せた番付では浮瀬の隣に並んでいます)の跡地あたり、実業家の田中吉太郎所有の庭園の中です。昭和13(1938)年9月号『武者の小路』の松花堂特集号によると、ここは元は浪速十人両替だった近江屋休兵衛の別荘だったそうで、夕陽閑渓と名づけられた広い敷地には、ほかにも閑月庵や残月檐、寰海亭などの建物がありました。大阪大空襲を受けて、こちらの松花堂は残っておりませんが、昭和11(1936)年刊行(戦後に覆刻もされています)の『数寄屋聚成4巻』に写真と図面が載っております。生玉町の松花堂には八幡の松花堂と同じく、茶室としては珍しく土間に3連のかまどが据えてありまして(桜宮のほうにはありません)、料理を作るにはもってこい。
また庭園史研究の大家の重森三玲によると、大阪・堀江の越井邸や京都・東山の浅野邸にも松花堂タイプの茶室があったそうです。松花堂昭乗の遺徳をしのんで、あちこちに松花堂を写した茶室が建てられたのかもしれませんね。
さあ、大変だ。もしかしたら湯木氏はどこかほかの松花堂と混乱して、まちがえてそっちに挨拶に行っちゃったかもしれませんよ。生玉町も堀江も店から近そうだし。Wikiの松花堂の項の執筆者の方々、ぜひ真相を明らかにしてください。
投稿者 webmaster : 2013年03月05日 10:07