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2013年04月10日

料理本のソムリエ [vol.54]

【 vol.54】

弁当の蓋を開けたら前菜が?

 前回のブログを読んで、「大阪くんだりまでして公園で探偵ごっこかい? まったくいいご身分だねえ」なんて思われたそこのあなた! 誤解、誤解ですよー。めっそうもありません、ちゃんと仕事はしてますからねっ。我々の取材は料理店さんのアイドルタイムに集中するので、変な時間帯がぽこっとひまになることがあるんです。あの日は夕方にまたミナミの取材先まで戻って、寝台列車で帰ったんですからね。夜は大阪の味の勉強と称して、著者とお寿司とおでんで飲んでたのはここだけの話ですぞ。

 ここんとこタイトなスケジュールで動いているのは、会社のフロアの大規模なレイアウト変更があるため本を棚から出したり箱に詰めたり台車で運んだり腰を痛めたりしていたのと、今月発売の『月刊専門料理』に出張コラムを1本書いてたせいもありまして。修業中の若い料理人さんに向けて、役立つ本を12冊薦めるという企画です。独立開業特集号だと聞いてたもんで、てっきり修業を終えたオーナーシェフ向けの本を案内するのと勘違いしてたこともあり、時間切れでなんだか不完全燃焼な仕上がりになっちゃった。どっかのブログで紹介済みの本やこれから取り上げようと思っていた本も混じっているうえ、終始マジメを気取っております。そのくせ相変わらずみっちりぎゅう詰めで、これから料理本に親しもうっていう人には文字だらけで不親切……。

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 くよくよ言い訳するのはこれくらいにして、本題へ。前回のWikipediaの松花堂弁当の項ですが、<その後、毎日新聞が<吉兆前菜>として取り上げたことで話題となり、松花堂弁当の名が広まった。>という部分の考証がまだでしたね(われながらしつこいね)。この一文はvol.52で引用した『吉兆味ばなし』の記述に基づくものと思われますが、出典が正確ではありません。『吉兆湯木貞一』によると、この記事は昭和11(1936)年2月20日の大阪毎日新聞に掲載されたものなんだそうです。さっそく見てみますと「洋食・和食を通じてこの頃“前菜時代”です」と銘打って、大阪ガスビル食堂の鈴木吉蔵料理長が洋食のオードブルについて、湯木氏が和食の前菜について説明しておりました。

<飲み屋などで銚子一本につき出しの小皿をたくさん出してお客さんを喜ばす、つまり前菜を賑わすといふことが流行つてゐます。これは酒のサカナが少しづゝ数多くが好ましいといふ酒飲みの心理に投じた戦法で…(略)…しかし本当の日本料理の立て前からいへばオードウブルはあくまで一品主義でありたいもので、これが日本料理の最高位である懐石料理が西洋趣味と本質的に違ふところです、酸、甘、鹹味を一時に出す方法は美味求真的な心から眼迷ひさせて純日本的な食卓では気持のブチ壊しとなります。

 だからつき出しでもやはり力のある風味の籠つた料理を落ついて味ふといふのがあくまで日本料理の前菜の行き方でありたいと思ひます、もつとも一品だけであまり淋しいといふ場合趣味のある容器、たとへば松花堂が薬箱に使つたといふ春慶塗の蓋ものなどに、昨今だと小鯛の塩辛、若鮎の黄身ずし、嫁菜の浸し、蛤田楽などをとり合せてオードウブルのセツトがはりに出すなどといつた方法がいゝと思ひます>

 昭和11年の時点で湯木氏は、春慶塗りの四つ切り箱を4種盛りの前菜に使うことを提案していたのには注意が必要ですね。昭和8年には弁当箱として使い始めたが、飽きて前菜にも使うことにしたのかしら? 前菜を盛る場合にも貴志邸に挨拶に行ったのかしら? そもそもこの記事から、何がどうなって松花堂弁当という名で広まっちゃったのかしら?

 戦後もこのスタイルで提供する前菜は続いたようでして、『あまカラ』(現在出版されているグルメガイド雑誌じゃないですよ)の6号(1952年2月)では、山内金三郎がイラスト付きで松花堂弁当(前菜を盛る場合は縁高と呼んだほうがふさわしいですね)に盛られた吉兆の前菜を紹介しています。

 山内金三郎は「神斧」「吾八」と号しておりまして、民具のおもちゃコレクターであり、ギャラリーや古書店経営、雑誌編集もしておりました文化人です。そういえば彼が編集長をしていた雑誌の文面に対し、魯山人が激怒した手紙が3年前に見つかってニュースになりましたね。朝日や毎日は大阪本社版のみですが、読売は全国紙でも扱っておりました。

<43年10月にも開催予定だったが、同社の広報誌の記事に引用された「(戦時中という)時節柄、どんなよいものでも高くてはいかん。(中略)少しでも安く売るやうにし給へ」との小林の言葉に魯山人が激怒。10月9日付で「安くて買(かえ)ると云ふハ金高之問題なりや実貨価値を論するものなりや」などとする手紙を書き、送りつけた。

 また、同17日付の手紙では、「づに乗って馬鹿になり切つた」「猪口才にして笑止千万」「意思の疎通絶無」と記事を執筆した編集長を罵倒。「これが貴下のお気に入ってゐるとあつては摩訶不思議」などと小林を責め、展覧会中止とわび状の提出を申し入れている。以降の手紙はなく、同展が開催されたか否かも不明という。>(読売新聞2010年10月9日朝刊)

rosanjin_06132_5.jpg 記事の前半をはしょったのでちょっと補足しますと、この手紙は阪急グループ総裁の小林一三(逸翁)宛てでして、逸翁美術館の建替えで未整理の書簡の中から見つかったものです。問題の雑誌編集部は阪急百貨店内にありましたが、広報誌ではなく美術雑誌でして、『美術・工芸』の昭和18(1943)年10月号。阪急百貨店で開かれる魯山人の作品展の予告の最後に、<肝入りの一人である小林逸翁も『時節柄、どんなよいものでも高くてはいかん。世話人とよく相談して、少しでも安く売るやうにし給へ。それなら僕も大賛成だ』といつてゐられました。今度の展覧会はその趣旨に従つたものです>と一言載せたのがことの発端でした。アッツ島で日本軍が玉砕し、配給が滞りはじめ、国が統制する“国民食器”が使われていた頃ですから、贅沢品販売とにらまれてもおかしくありません。そこで余計な気を遣ったばっかりに、我輩のすんばらしい芸術をなんと心得ておるのかと烈火のごとくお怒りになったようです。

 先の読売新聞の書きようだと、時局におもねる百貨店の俗物編集長に魯山人大先生がお目玉を食らわせたように見えますが、当時の山内は阪急美術部の嘱託で、昭和14(1939)年に銀座のギャラリーで開かれた魯山人の画展には、竹内栖鳳に東郷青児、長谷川伸に森田たま、根津嘉一郎に小林一三といった文化人、財界人のお歴々と並んで推薦文を寄せていたくらいですから、それを頭に入れて読んでみるとちょっと受け止め方が違ってきます。

 そもそも山内は東京美術学校の卒業生でして、梶田半古の弟子。小林古径ら京都画壇との交流もあり、明治の末には美術店「吾八」を経営し、大正時代にはおもちゃの版画集『寿々』を出版しています(20年ほど前にオリジナルの版木を使った復刻本が出ています。すごく贅沢な造りです)。こうしてみるとちょっと魯山人とかぶるところがありますね。

 のちにその画力が買われて「主婦之友」社に入社したのですが、文化人に顔が広いのと企画力があるので編集者としてもめきめき頭角を現します。同社が公募した社章の審査員を務めたり、絵画も陶芸も染色もこなす市井の天才芸術家(魯山人のことではありませんよ)の藤井達吉と旅行したときの記事を雑誌に掲載したりと、これまた多才に活躍し、最後は事業部長を務めました。彼が主婦之友社に入ってしばらくして、同誌にデビューしたての魯山人が文章を寄せていますから、その当時から面識があったかもしれません。

 なお彼は、全国の菓子を集めた画文集『甘辛画譜』の著者であり、食通としても知られておりました。じゃなきゃ『あまカラ』に連載なんて持てないものね。『新修茶道全集』(1951年)の懐石の巻の編集を担当しております。

<「懐石編」のとりまとめに、編集者の立場から少し蛇足を加へてみますと、懐石などといふものは、それ自体が実際的なものであり、実用的なものなので、いたづらに理論に流れたり、高踏ぶつた文献の解説に終始するやうなことは仕度くないと思ひました>

rosanjin_06132_6.jpg とは同書月報中の彼の弁であります。確かに戦前の昭和16(1941)年に刊行された『茶道全集』懐石編(戦後復刻もされました)と比較すると、前回登場した木津宗泉以外の執筆陣を一新。魯山人もバッサリはずされて、代わりに辻嘉一氏や湯木貞一氏が加わっております。ちなみに辻嘉一氏は、例の問題になった『美術・工芸』の翌11月号にビルマ戦線からレポートを送っておりまして、当時から親しい間柄だったようです。

 このように、主婦之友から阪急グループに移ったのちも、山内の手腕は衰えませんでした。数々の展示会を手がけ、『武者の小路』昭和13(1938)年11月号で<山内さんは次から次へと絶間なしに催物をやつてゐられるが、どれもこれもヒツトするには敬服させられる。兎に角山内さんは阪急の儲け大将だ>と絶賛されるほど。魯山人の手紙の中の<これが貴下のお気に入ってゐるとあつては摩訶不思議>というセリフはこうした背景に基づくものです。もしかしたら魯山人は、やっかみや山内に認められたい気持ちもあってちょっかいを出したんじゃないかしら? なにしろ彼は、柳宗悦にも手紙でからんだ前科がありますからねえ。それに魯山人は山内本人にもくどくど文句を書きたてた手紙を出しておりまして、それが4年前の夏の古書展で売りに出されておりました。出品者は昭和15年と27年の手紙と推定していましたが、一部はこの一件に関するものかもしれません。

 ちなみに魯山人は戦後に、先の『あまカラ』誌上でも一騒動やらかしております。12号と13号(1952年8・9月)で行なわれた「甘辛往来」というアンケート企画に対し、<私ハ一生涯かゝつても申上げられない程の話をもつてゐますから、記者の上京の際でも御立寄り下さいお話します>と偉そう…じゃなかった堂々と答えました魯山人先生。その後、編集部からなしのつぶてだったのにしびれをきらしたのか、この企画に対しまして編集部宛てに貴重なご意見を送られました。<(略)…直接物の味のことばかり言つて、其の背後に大きな役割を持つてゐる「美」の支配力には甘辛往来回答者は無関心である。この点甚だ物足りない回答で満ちたことを嘆いてゐる次第だ>と憂いていらっしゃいます。そして親切にも各コメントの感想を寄せて下さり、一挙掲載されました。

 でもねえ、このアンケート企画は(1)わが家で好んで食べる料理、自慢料理、(2)好きな外食とその店、てな実にありふれたお題でして、そんなに力こぶを作って答えるほどのものかしら。たとえば小林一三の回答は<(1)ハンペンのテリ焼、ブリの一塩、塩鮭のヤイたの等、田舎ものゝ趣味也。(オオはずかしや)(2)京都大市のスツポン>。これをご覧になった魯山人は<(1)最も恵れない一人である。諸事貧乏性に出来た人、血色が悪い、シワが多い所以である。(2)不老長寿が狙ひでせう>とあんまり美しくない言葉でお嘆きになっています。

 山内金三郎はといえば、(1)が菜園のナスの油炒めを生姜醤油で食べる、庭のタケノコで作った筍飯、妻の柿の葉すし、(2)は戦後復活した美々卯のそばと答えているのですが、これに対しては<(1)油で炒めるのは、歳より若い味覚。筍は敢て飯とは限らない。柿の葉すし、多分よささうである。(2)大阪でそばは大したことはあるまい。尤も東京でも旨いのはないが>ですって。

 中には<かれこれ及第。あなたは少し分かるらしい>なんておほめの言葉を頂戴した人もおりますが、<三等食道楽><マヅイ物をあさる食通のやうに聞えます><(1)も(2)も味覚に天分の無い人を明かにしてゐます。そのくせラジオの食物対談に出られるが>なんて誹謗中傷も…。こんな調子で49人の回答について逐一批評しています。なんだかグルメ気取りのブロガーみたい。そのうえよーく見てみると、料理通として知られていた本山荻舟や山本嘉次郎、裏千家の井口海仙、友人の菊岡久利や大阪星岡茶寮のパトロンだった志方勢七らの回答には、いっさい触れていないのはどうしてかしら?

 その後、この手紙の論調に気分を害した読者の投書を掲載したり、パリ滞在中の魯山人のふるまいを大岡昇平が暴露する「巴里の酢豆腐」(例のトゥール・ダルジャンで醤油と粉ワサビで鴨を食べた話です。タイトルからわかるように知ったかぶりを描写する内容なんですが、世間一般ではなぜか魯山人が食通ぶりを発揮した逸話に脳内変換されています)を掲載したりと、『あまカラ』編集部はなかなか人が悪いですね。

rosanjin_06132_4.jpg おっとあんまり揶揄すると魯山人先生と変わらなくなっちゃう。最後にちょっとほめておきましょう。4つに分かれた器で提供する前菜に話を戻しますとね、賢明な読者諸氏はお気づきかと思いますが、vol.5vol.25でも書きました通り、これってとっくのとうに魯山人が提供していたスタイルでしたよね。このオリジナルの器に盛った前菜こそが星岡茶寮の名物料理でして、日本料理の前菜は自分の発明であると自慢しておりました。

 Wikiの錚々たる執筆陣はさておき、吉兆開業前から魯山人に傾倒していて、星岡茶寮で修業するのが夢だったという湯木貞一氏がそれを知らないわけがありません。ただし、魯山人の前菜の器は、四角の陶器を組み合わせてひとつの盆にまとめたものですから、松花堂縁高の前菜はそのまんま真似たわけではないのですが、多分に意識はしていたでしょう。

 また吉兆では、薬味入れみたいな浅くて四角い皿が6つ(2行3列です)つながった状態で焼かれた「絵の具皿」もオリジナルの器として有名でして、こちらも前菜や刺身を盛るのに用いられています。これまた魯山人の前菜をリスペクトしたものではないのでしょうか。


  

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投稿者 webmaster : 2013年04月10日 16:08