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2013年11月27日

『フランス料理を描く フロリレージュ』

06179.jpg『フランス料理を描く フロリレージュ』
著者:川手寛康
発行年月:2013年11月27日
判型:B5変 頁数:208頁

06179_5.jpg 月に一度、ランチ営業の終了からとディナーが始まるまでの時間で1回3品の調理と盛りつけのプロセスを追い、仕上がった料理を撮影しました。

 とにかく毎日満席という超繁盛店での、非常に時間的にタイトな撮影でした。それでも撮影のために完璧に準備してくださった厨房スタッフのみなさんには感謝です。

 この本の核を「盛りつけ」にしよう、と決めたのは以前に何度か料理を撮らせていただいたときの群を抜いたセンスのよさとモダンな感覚は、どのように生まれるのかを明らかにしたいと思ったからです。左右中央でもない、安定感もない、でも心に残るステキな盛りつけでした。大胆にして繊細なのです。


06179_1.jpg◎鰆のロースト パンソース
 椎茸とレンコンのサラダ

肉厚で繊維が密な素晴らしく美味しい原木シイタケが
この料理の核。
サワラのロースロとサラダは、すっきりとした味わいなので、パンの白いソースとシイタケのピューレで、フランス料理らしいコクと味わいを添えました。

06179_2.jpg◎ホロホロ鳥のロースト
 そのジュと内臓のソース キャベツのブレゼ

ホロホロ鳥は鳥類の中でもっとも好きな食材。
添えたソースは、キャベツをおいしく食べるために、
ホロホロ鳥のジュと内臓でつくった濃厚なペースト。

06179_3.jpg◎牛ハツのコンフィ
 エシャロットのソース 骨髄のフラン

しっかりした噛み応えのある牛ハツには、
食感の異なるなめらかなモアルーのフランを合わせる。

06179_4.jpg◎仔鳩のフリットと和牛のカルパッチョのデュオ
 そのコンソメスープ仕立て

使用の国産の仔鳩は、比較的繊細な味わいなので、
味に厚みをだすために霜降りの牛肉を添えて、
日本人好みのマリアージュを表現。


 川手シェフ本人の盛りつけのセンスのよさはよくわかっておりましたが、どのように厨房スタッフにその盛りつけの指示を出すだろうと興味をひかれました。
「その料理のドレッサージュのルールをいくつか伝えて、あとは各人にまかせています」というシェフの言葉に驚きました。
かなりむずかしいデザインなのですから。そのルールとは一体?
その答えは……どうぞ本書を読んでみてください!

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投稿者 webmaster : 09:38

2013年11月25日

料理本のソムリエ [vol.62]

【 vol.62】

オムライスと制服のメイドさんは
西洋をまとった日本なのだ

 朝ドラでは、チキンライスをオムレツで包んでケチャップをかけたオムライスは、明治44年にめ以子のお父さんが発明したことになってましたね。今回これに異議申し立てを行なうと皆さん期待されていたかもしれませんが、いい大人ですからね、ドラマと現実が違うことくらい、知っていますよお。実在の人物、料理とは一切関係ありません。

 実際には銀座の「煉瓦亭」で明治30年代に誕生したとする説と、大阪の「北極星」の前身である「パンヤの食堂」で北橋茂男氏が大正14(1925)年に発明したとする説があるそうですが、何をもってオムライスの完成と言っていいのかがよくわからないので、どっちにも軍配は上げられない、というのが正直なところです。

 まず煉瓦亭が生んだ明治時代のオムライスですが、これはご飯と卵を一緒に炒めるような料理だったそうで、今のオムライスとはちょっと違います。ご飯はオムレツの具の扱い。『週刊現代』1997年4月5日号の「グルメ・スペシャル オムライスからカツ丼まで「元祖」の名店」に載っていた煉瓦亭3代目主人の談話によると、元はまかない食だったこの料理が明治33(1900)年にメニューに取り入れられたときは、上にケチャップこそかけていたものの、ご飯は白かったそうです。その後、明治35年にピラフ入りの改良型になったとのことですが、このピラフがトマト味だかどうかは書いてありませんでした。

 一方北橋氏の発明譚は、柔らかいオムレツとご飯をセットで必ず注文する胃の悪い常連さんのために、わざわざ二皿別々に注文しなくても一度に食べられるような料理を発明したっていう話なんですが、先の週刊現代には出てきませんでした。『サライ』1999年6月3日号「ハヤシライスとオムライスの謎」にはあったのですが、大正11年に発明して、14年からメニューにのせたとある。かと思えば、『dancyu』1992年10月号(ABC朝日放送時代の宮根誠司がオムライスの作り方を教わっておりました)では、誕生したのは大正13年頃とあります。どうもよくわかりません。北橋氏の著書『幸福は食べ物によって左右される』を見ていても、卵は血液がアルカリ性になるから身体によくないという話はあっても、オムライスにはまったくふれておりませんし。まあネット上では大正11年説も13年説も見当たらないので、14年っていうことにしておきましょう。

shina_seiyouryori.jpg やっぱり赤ーいトマト味のチキンライスやハムライスをオムレツでくるんでこそのオムライス。チキンライスを使ったオムライスの初出文献については、例の小菅桂子氏が『にっぽん洋食物語』で、『家庭料理法大全』だと紹介しています(ちなみに煉瓦亭のオムライスの話もでてきます)。これに対してつい先日出版された『ニッポン定番メニュー事始め』という本の中で、澁川祐子氏は以下のように述べております。

 <現在のようなオムライスが料理書に初登場するのは、一般に1928(昭和3年)発行の『家庭料理大全』だと言われている。では、どうせなら大正から昭和初期にかけての料理本を実際に当たってみよう。
 手当たり次第、西洋料理を紹介する家庭料理本の目次をめくる。そこで発見できたのが、1926(大正15)年発行の『手軽においしく誰にも出来る支那料理と西洋料理』。通説より2年ほど早い。「オムライス(卵と肉の飯)」とその名も正しく紹介されていた。材料は、鶏卵、牛肉、グリーンピース、タマネギ、トマトソース、塩、胡椒、牛脂であるヘット、ごはん。牛肉なのでチキンライスではないが、トマトソースを使っているところがポイントだ。作り方は、あらかじめ卵以外の材料を炒め、焼飯を作る。別のフライパンで、卵を薄く大きく焼く。
 <焼けたならば拵らへ置きたる炒飯(いりめし)を一人前位宛(ずつ)入れ、卵の周囲を箸にて折込み、フライパンに皿を當(あて)がひ、ポンと返しますと、丁度卵で包んだ様に皿に盛れます>
 まさに現在、料理本に載っている作り方と同じだ。最後には<スプーンをつけて供します>とあり、食べ方の指導が必要なくらい目新しい食べものだったことがよく表れている。>

 澁川氏のこの本、小菅桂子氏や岡田哲氏の洋食起源本と比べればかなりまとも。料理を専門としているライターさんではないにもかかわらず、頑張って調べているなあ、という印象です。ただ残念なことにどれもこれもが、テーセツだのツーセツだのを出発点に調べ始めて、それがどうやらまちがってるらしいってことがわかったところでめでたしめでたし、おしまい。惜しいねえ。そっから先が面白いのにもったいない、という印象です。そもそも、まちがってないほうが珍しいんだってば(笑)。

 このオムライスの一件も、なぜか『家庭料理大全』というタイトルで覚えちゃったせいか、昭和3年刊の『家庭料理法大全』自体はご覧にならなかったようです。こちらの本の著者も『手軽においしく誰にも出来る支那料理と西洋料理』とおんなじ小林定美なんですよ。

<フライパンをよく拭って、ヘットを一面に敷き、強火にかけて、そこへ攪き混ぜた卵を入れ、薄くフライパン一面に焼きます、一寸火から外して、炒り飯を丁度包める丈け卵の上に載せ、四方から卵と攪き寄せるやうに致しまして、(この場合決して、飯を包み切らなくともよろしい、只卵はほんの周囲の格好を作る為に攪き寄せるのですから)再び火にかけて一寸焼き、皿をフライパンにかぶせて、反対にフライパンを起します、すつかり卵で包まつたご飯が上手く皿に受かります>

muryoken.jpg 『家庭料理法大全』ではグリーンピースを使うのをやめて、より詳しく、誰でも作れるように配慮していますね。小林定美は自分のレシピを再構成して似たような本をいろんな出版社から出しております。うーん、商売上手の出版社泣かせ。たとえば同じ昭和3年に『一年中朝昼晩のお惣菜と支那、西洋料理の拵へ方』という本も出しているのですが、こっちのオムライスは『手軽においしく誰にも出来る…』とおんなじレシピです。

 それにしても1925年に大阪で北橋氏が発明した翌年には、もう東京で活字化されているとは。そんなに短期間でパクられるほど北橋式オムライスは世に広まっていたのでしょうか。当時の人は小林がオムライスの発明者と思わなかったのか、ちょっと心配になっちゃいました。小林は大日本家庭料理協会を主宰しておりまして、著作は多いし、巻末には質問券をくっつけておりまして、発信力があるしなあ。

 ちなみに小林定美は和洋中なんでもござれで、鶏のマレンゴ風のような素敵なフランス料理ではなく、現在あるような折衷家庭料理の普及を推し進めた一人。新聞、雑誌と活躍しますが、昭和5年に忽然と姿を消し……おっと、この話はラーメンの回のときにでも。

 ただし小林式レシピにはトマトソースはでてきても、ケチャップを使うとはありませんでした。北橋氏がオムライスの発明者というのは、画竜点睛、ケチャップを使ったチキンライスと組み合せたことを指すのかもしれませんね。

 さて、同じ大正14年。『改造』4月号には童謡作家のサトウハチローがこんな文章を書いています。

<こゝは西洋料理店です。豚もあります。ほんとうの牛肉もあります。夏にはおいしい生ビールも呑ませてくれます。さて、ひよつとこの話しで食べに行きたくなる読者諸君の為に伝四郎の店をくわしくいふなら、浅草広小路の露天飲食の田原町の方から数へて十何軒目の母子(おやこ)軒と染めてある暖簾がそれです。(…略…)伝四郎の暖簾の中に帰つて来ると貞チンは酒をやめて飯を食つてゐます。伝四郎得意のオムライス――卵焼の中に飯の這入ったもの、その名を笑ふ勿れ>

 生ビールも出すちょっと変わった屋台の店主の名は、サトウハチロー曰く「御前試合の遺恨から闇討を食わして逐電した敵役」みたいな橋口伝四郎。どうせなら「父子軒」のほうが侍っぽいのに、なぜ母子? 伝四郎のお母さんが手伝ってたんですかねえ。橋口氏が作っていたオムライスは卵焼きにご飯が混ざっているタイプなのかくるんであるタイプなのか、ご飯は白いのかチキンライスなのか、この文章からはわかりませんが、銀座だけでなく浅草の屋台でも「オムライス」という料理が売られていたのは確かなようです。

moukarumenu.jpg ちなみに伝四郎の子でも母でもないサトウハチローですが、この記事を執筆する3年前の19歳のときに、母子軒で何度もツケで食事をしたあげく、アルバイトをしておりました。生ビールのポンプを押したり、皿を洗ったり、キャベツの上に紅生姜をパラパラまいたりしているうちに、カツと“玉三肉二”くらいは揚げられるようになったと『ぼくは浅草の不良少年 実録サトウハチロー伝』にあります。“玉三肉二”って何だろうと思って原典を探したところ、タマネギと肉を交互に(タマネギが3なのは外側にくるからです)刺したものと説明されていました。肉フライってやつですね。

 このアルバイトの件は、昭和11年に朝日新聞東京版の連載をまとめた『僕の東京地図』にも出てきます。この本は、全体の3分の2ほどですが復刻もされておりまして、原本ではあっちこっちへ飛び回っていた文章を、浅草なら浅草、上野なら上野と地域別にまとめて編集し直しているので、当時をしのんで脳内お散歩するのにちょっと便利な造り。復刻の企画段階ではグルメ探訪を意図していたそうで、そっちの話題も豊富です。それも菓子や屋台など庶民的な店がたくさん出てまいります。

 さっきの『ニッポン定番メニュー事始め』では、戦後の闇市でソース焼きそばが誕生したとかいうテーセツに異議を唱えまして、昭和10年代にお好み焼屋の店内で生まれたという仮説を立てておりますが、証拠にまでは迫りきれていませんでした。残念、いい線ついてるのに。この本を読めばちゃんと出てきます。

 <ヤキソバ同じく五銭なるものがうまい。ソバを鉄板で、いため焼きにして、キャベツのみじん切りと、ジャガ薯(いも)のサイノメが混じっているのだ。ソースの香りにむせびながら食うとよろしい>

 このヤキソバの店も屋台でして、向島のお風呂屋さんの前に陣取って、風呂上りのお客さん相手にご商売しておりました。お好み焼も出しますが、ポテトフライにロールキャベツ、カツレツも作っていたとのこと。一方浅草公園の章には、ヤキソバではありませんが、モチ天、キャベツボール、パンカツなんていう、サトウハチローもちょっと判断に苦しむものを売っていたお好み焼の屋台「御笑楽」が登場します。お好み焼は戦後生まれなんていうツーセツを信じている人たちの想像を絶していますねえ。

 中国料理の炒麺をウスターソースで作っちゃったのがソース焼きそばなら、洋食の定番のオムレツとなんちゃって洋食だったチキンライスをえいやっと一皿でドッキングさせたのがオムライス。なんだかカツカレーみたいですね。そういえばカツカレーも浅草の屋台店が起源と言われております(vol30 参照)。『僕の東京地図』には、銀座の松坂屋の横の屋台「青葉亭」では、カツ丼の兄貴分みたいな「オムカツライス」を出していたとありました。現在見るようなオムライスは屋台文化の中から生まれた可能性は高いと思います。

 例の北橋氏も大正11年に23歳で起業した時は、大阪の西区幸町で奥さんにパン屋をやらせて、自分は一銭洋食(これまたお好み焼のルーツですね)の屋台を引いていました。屋台がはかばかしくいかなかったので、のちにテーブル3つ椅子7つを買って、間口二間のパン屋の半分を仕切って安洋食屋を始めたのです。それでパンヤの食堂っていうわけ。一皿の料金が均一の料金体系だったので、二皿に分けて出すよりも一つにまとめたほうが常連さんへのサービスになったんですね。

omusubi.jpg それならカレーとオムレツは仲良くくっついたりしなかったのかしらと思ったら、これまた1925年刊、秋穂敬子著『美味しく廉く手軽に出来る日本支那西洋家庭料理』に、オムレツト・インデアンというのがありました。カレーソースにご飯を混ぜて、広げたオムレツの上に盛って、柏餅のようにくるむとあります。柏餅っていうのが言いえて妙。そういえばコンビニでは、チキンライスをオムレツでくるんだ丸い「オムすび」が売ってますよね。オムライスの和風志向もここまで来たかと驚くやら、感心するやら。

 ところで日本オリジナルといえば、カゴメの社史を見ていて驚いたのは、昭和33(1958)年発売のアルミチューブ入りトマトケチャップ。細長い絵具みたいな形です。ここからケチャップがにゅるりと出てくることを想像するとちょっと楽しい。今見られるようなソフトビニール製のボトルは昭和41(1966)年登場とありまして、意外に新しいですね。このタイプの容器はマヨネーズのほうが先行していましたが、ケチャップでは酸素が透過すると変色するので開発に苦労したようです。海外ではマヨネーズはビン入りですし、ハインツのケチャップはひっくり返して立てて置ける固いプラスチックボトル入り。ホットドック店用はともかくとして、家庭用の搾り出せるボトルっていうのは日本独特の模様です。

 秋葉原のメイド服(これまたイギリスのメイド文化にあこがれてアレンジしたものですね)姿の娘さんが、オムライスにケチャップでちゅるちゅる字を書くっていうのは、まさに日本文化の極みなのですね。メイドカフェのオムライスは外国からの観光客の皆さんに喜ばれるっていうのもなんとなくわかりますね。

  
 

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投稿者 webmaster : 18:00

2013年11月19日

日本料理の基礎 『焼き物と塩の本』

06178.jpg日本料理の基礎 『焼き物と塩の本』
日本料理の四季 編集部編
発行年月:2013年11月20日
判型:B5 頁数:112頁

 この夏から刊行を始めた日本料理の基礎シリーズですが、早く皆さんにその存在を知ってもらおうと、第1弾の『刺身と醤油の本』からあまり間をおかずに、第2弾をリリースしました。

このシリーズは広い読者層に向けてがモットーなので、あまりマニアックに走らないようにしているのですが、2冊目ともなると、ついつい各種木炭を集めたり(みんな真っ黒で同じだと思ったら大間違いですからね)、各製法の塩を集めたり(みんな真っ白で同じだと思ったら大間違いですからね)、はるばる塩田にくりだしたり。木炭図鑑だの塩作りルポだのにその成果が表れております。

もっとも聞くも涙、語るも涙。
能登半島までバカンス気分でのこのこ出かけたおかげでバチがあたりまして、雨にたたられて出張が2日延長に。土日に開かれた輪島大祭と珠洲のトライアスロンレースにぶつかって宿がありません。いっとき野宿も覚悟いたしました。

海水を塩田にまいて蒸発・濃縮させるのは、湿度の高い日本独特の方法です。途中で雨が降ったらこれまでの作業がおじゃん。とはいえ、その大変さばかりが注目されていますが、塩作りの決め手は釜で結晶させる工程だったりします。
できたての温かい塩は結晶の形が壊れていなくて、おいしかったですよ。5日も待ったせいかもしれませんが……。


06178_1.jpg


siozukan.jpg図鑑用の塩は塩で一苦労。
調子に乗っていろいろ集めたはいいが、撮影に6時間以上かかりました。同じ量の塩をできるだけ同じ高さから落として自然な山の形にするのですが、ぱあっと散ったりぼたっと固まったり加減が難しい。積んでは崩し積んでは崩しの賽の河原。

これだけ塩にいろいろな種類があるのは、日本料理の塩の使い方がなかなかに繊細で、いろいろあるからかもしれません。煎って細かくした塩を高いところからふったり、紙をかぶせて間接的にふったり、塩水に浸けたりと、場合によって使い分けたりします。

ところが「塩コショウする」は家庭でも使われるのに、「塩をする」は日本料理店の外ではあまり耳にいたしません。
そもそも家庭で魚を焼かなくなってきた。そのせいで外食でも焼魚が喜ばれなくなってきたとか。和食が世界遺産に登録される見通しなのはとても誇らしいことですが、それがどんなものでどんなにすばらしいか、われわれ自身が理解できているでしょうか。

 日本料理の焼き物は、ソテーやグリルとは大きく異なります。フライパンもグリルパンも焼き網も使わず、串を打ってあぶるのが基本です。「バーベキューとどこが違うのか」というのはとんちきのセリフでして、串で美しい形に固定したり、たれを何度もぬり重ねて味をのせたりと、さりげない工夫をするのが日本料理の真骨頂です。世界に誇るべき優れた技術だと思うのですが、料理人さんもそのよさにお気づきになってない。備長炭のコンロも遠火での強火で焼ける上火式ガスグリラーも、家庭にはないので、料理店に行かなければ味わえませんよ。

だいたい和食について外国の人に自慢しようにも、「焼魚の横にある赤い棒って何なの?どうやって作るの?」って尋ねられたときにちゃんと答えられますか? 既製品があるので、今の若い料理人さんも知らないかも……。
不安になったあなた、すぐに本屋さんへGO!


*** シリーズ 日本料理の基礎 好評発売中!! ************

06171.jpg日本料理の基礎 『刺身と醤油の本』
日本料理の四季 編集部編
発行年月:2013年8月1日
判型:B5 頁数:108頁

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投稿者 webmaster : 13:23

2013年11月18日

『専門料理2013年12月号』 編集後記より

131312.jpg『専門料理2013年12月号』
発行年月:2013年11月19日
判型:A4変 頁数:160頁


特集:年の瀬の料理

「温かみのある品、華やかな品、冬の食材を盛り込んだ品が満載!
日・仏・中3ジャンルによるお節料理とその表現も紹介します」


sun_1.jpg 今年って秋あった? 夏が長かったから、なんだか秋をすっとばして冬に突入しちゃったように感じるよ。

moon.jpg ほんと急に寒くなったよね。温かい料理が恋しいよ。

sun_1.jpg クリスマスに忘年会に正月……レストランはこれから年末に向けて、1年でいちばん忙しくなる時期だね。

moon_1.jpg 今月号の特集は、すばり「年の瀬の料理」!パイ包み、甲殻類、煮込み、パテ・テリーヌ、魚、フォワグラの6つのカテゴリーの料理を30品集めました。

sun_1.jpg 温かみのあるほっこりした品、パーティを盛り上げる華やかな品、冬ならではの食材をふんだんに盛り込んだ品……実力派シェフ10人の料理がこれだけ集まると壮観だなぁ。

moon_2.jpg それだけじゃなく、今回はアミューズとプティフールも紹介いただきました。アミューズとプティ・フールってあまり注目される存在ではないけど、こうやって集めると各シェフの個性がよく出ているのがわかるね。

sun_2.jpg この時期はイベントごとで初めて来店するお客さんも多いし、読者のみなさんには、是非これらの料理をメニュー作りのヒントにして、リピーター獲得につなげてほしいと思います。

moon_1.jpg そして今号は歳末の特別企画として、お節料理も紹介します。年に一度しか作らないお節は、撮影のタイミングが年末しかありません。……で、実は今から1年前、2012年の年末にお店に伺って撮影させていただきました。

sun_1.jpg 伺った30日は大雨で、各店スタッフ総出による盛り込みの真っ最中。まさに戦場でした。ご協力いただいた3店のみなさま、ありがとうございました!

moon_1.jpg ここ数年でお節事情もずいぶん変わったよね。日本料理だけじゃなく、フランス料理、イタリア料理、中国料理……と、さまざまなジャンルの店がお節を作るようになったし。

sun_1.jpg 今回も西塚茂光さん(馳走 啐啄)、岸本直人さん(ランベリー Naoto Kishimoto)、新山重治(礼華 青鸞居)と、日・仏・中のお節をご紹介いただきました。

moon_1.jpg 西塚さんが意識しているのは、「保存性と味わいのバランス」。今は元日中に食べるお客さんが大半で、昔ほど長期保存させる必要がないので、ある程度の保存性とともに、素材の味わいを生かすことを意識しているそうです。

sun_1.jpg 曰く「修業をはじめた35年ほど前は、保存性重視で、関東風のお節の料理はほとんどすべて醤油と砂糖の濃い味つけだった」って。「1週間調理場においてあっても傷まなかった」なんて話もあったみたいだよ。

moon_2.jpg 親交のある日本料理の料理人さんからお節について学び、今のスタイルにたどり着いたのが、岸本シェフ。アクリル製のボックス12個が詰まった一の重は、いわば「アミューズの集合体」。銘々で取って、シャンパーニュやワインに合わせて楽しんでもらうことを想定しているんだって。

sun_1.jpg 素敵なダイニングでランベリーの料理をつまみながら正月を迎える ―― そんな生活、いつかしてみたいなぁ。

moon_1.jpg 4年前からお節料理に取り組みはじめ、通販と百貨店で販売しているのが、新山シェフ。何と200セット以上の注文が入るんだって!

sun_1.jpg アワビのオイスター煮込みにイクラの紹興酒漬け、広東風の叉焼に牛舌の香り醤油煮……お酒がすすむ中国料理の前菜は、お節にぴったりかもね。


1月号では連載をリニューアル!日仏ベテランシェフの新連載も


moon_1.jpg 12月を乗り越えると新年ですが、『専門料理』も来年1月号から、いくつかの新連載をスタートします。

sun_2.jpg 中でも目玉は、日仏両国のベテランシェフが登場する新連載。「日」は三國清三シェフ(オテル・ドゥ・ミクニ)による「三國清三のネオ・クラシック」。そして「仏」は月替りでフランスのベテランシェフが登場する「フランス・巨匠からのメッセージ」。初回はミッシェル・ゲラール氏(レ・プレ・ドュジェニー)です!

moon.jpg ベテランシェフならではの料理と重みのあるメッセージにご期待ください。

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投稿者 webmaster : 16:19

2013年11月08日

料理本のソムリエ [vol.61]

【 vol.61】

「素」が先か、トマト味が先か

 朝ドラの「ごちそうさん」、ご覧になりました? 「あまちゃん」だってなかなかリアルタイムで見られなかった私なものでとびとびでしか見ていないのですが、完全に一本取られた心地です。地雷を避けるどころか、地雷原の中を戦車でスラローム。こりゃあどうも確信犯みたいですね。前に大河ドラマがリアルさを追求しすぎてストーリーの足をひっぱっているっていう批判がありましたが、それに学んでの演出なのかも。明治や大正の西洋料理や食事情をリアルに再現しても、大喜びするのはごく一部のマニアだけで、お茶の間受けしそうにないものねえ。でも食がテーマって堂々謳っておきながら、こんなにも時代考証がいい加減でいいのかしら……?

 西洋料理店の開明軒の描かれ方や塩むすびに使った塩の種類といった重箱談義はこの際棚上げするとしても、明治生まれの子供らにフランス料理(それも牛肉の赤ワイン煮やフォワグラのフラン)をふるまう超展開には度肝を抜かれました。そんでもって先週はいよいよフォンが登場。そりゃまギッド・キュリネールだってフォンは載ってますけどね。卯野大五シェフは、平成のホテルから明治時代にタイムスリップしてきたっていうエピソードの伏線かしら?

 まあ、話もまだ途中なのに小舅っぽいことは言いますまい。ためしてガッテンのような情報番組ならいざしらず、目を転じればチャングムなんていうアストロ球団クラスの事例(vol2参照)もありますし。自由奔放荒唐無稽なら、そうとわかるように徹しきってエンターテイメントとして楽しませてくださいね。当ブログ、洋食と大阪料理の話はしばらく封印しまして、「ごちそうさん」を生温かく見守っていきたいと思います。

 ただ、ここんとこずっとトマト縛りで書き続けているので、このシリーズが終るまではご勘弁を。前回ケチャップの由来についてちょろっと触れましたが、それでは日本人はいつからケチャップに親しむようになったのかっていうのが気になって、もうずいぶん前にいろいろ調べちゃったもので。

 ケチャップの日本への導入はウスターソースに遅れるものの、明治後半には国産化されています。『カゴメ一〇〇年史 本編』によりますと、カゴメでは明治41(1908)年には試作を始めたそうで、大正末の生産量はトマトソースの3分の1ほどだったのが、昭和5(1930)年に逆転し、14(1939)年には6倍近くにもなったそうです。業務用中心だったトマトソースに対し、保存のきくケチャップは家庭にも広がっていったため売れ行きものぼり調子だったとか。そういえば戦前は、桃屋さんもケチャップを販売してました。

 そんなケチャップ、戦前の庶民にとってどんな存在だったかがわかる森田たまの一文をご紹介。『絹の随筆』(1961)の中の「トマトカチップ」です。慶応大の学生だった森田七郎と結婚したての大正半ばのお話(おお、どっかの家とちょっと似てる)。同じ「絹の随筆」という副題がついている『森田たま随筆全集第3巻』には収められておりませんのでご注意を。


<栗と松茸をふんだんに入れた、チキンアラマレンゴーをつくつてみようと思つたのは、新学期のはじまる九月であつた。久しぶりで顔をあはせる友人たちに、すこし贅沢なごちそうをしたいと思つたのであつたが、あいにくなことに、なまのトマトを切つて入れる、とあるそのトマトが、もう八百屋にはなかつた。

 どうしようかしら、これはやつぱりトマトで煮ないと味が出ないんでせうねと思案してゐる私に、常連の一人が智慧をさづけてくれた。
「三越の食品部へ行くと、トマトカチップといふ壜詰を売つているけど、あれどうかしら。トマトの汁だからいいんぢやないかと思ふけど。…」

 鶏と玉ねぎと栗と松茸を、トマトカチップ入りのスープで煮て、おろしぎはにちよつとセリ酒を落したこの料理は、ハイカラな慶応ボーイに大好評であつた。さうして、トマトカチップは、煮込物に入れるだけでなく、そのままなめてもおいしいし、スコッチエッグなどにかけると、一そう風味をますといふことも同時に発見した。トマトカチップはわが家にとつて、お醤油についで重宝な調味料となつた。

 トマトカチップがトマトケチャップであると知つたのはいつのころか分らない…(略)…人生の半ばを病床に暮し、三十年来台所に起つたこともない。チキンアラマレンゴーはいまだにわが家の秋の料理の一つとなつてゐて、必ず九月の食卓にのぼる。みんながおいしいといふと夫は、しかし昔ママのつくつた方がもつとおいしかつたといふ。

カチップ時代のそれには、青春といふ調味料がもう一つ入つてゐたせゐであらう。>


 「え? 昔おいしかったのはマツタケが入ってたからじゃあないの?」と思わずつっこんでしまいそうになったのですが、1959年に発表された文章なので、森田家では戦後もマッシュルームではなくてマツタケ入りだったのかもしれません。マツタケは昭和も30年代までは、大正時代と同じくらいの量が採れていましたから。

 うーん、こうなると実際に試してみないわけにはいきません。ドラマの時代考証をくさすのならば、みずから範を示さねば。ええい、ここはひとつ大枚をはたいてマツタケを買ってやろうじゃありませんか!

 ところがもう11月なので、輸入のマツタケしか出回っていませんでした。いやあ、これはしたり。丹波のマツタケをふんだんに使う気まんまんだったのに残念残念。それにしてもアメリカだのトルコだのから来たマツタケを使った場合、ブログに「松茸」って書いて大丈夫なのでしょうか? 栽培のシメジは今後はちゃんとブナシメジやヒラタケって書かないと怒られるのかなあ。


torinikunomarengofu.jpg 随筆には作り方が書いてあるわけではなく、量も“ふんだんに”としかわからないので、柴田書店刊『フランスふだんのおそうざい』を参考にしてみました。といっても使う材料が全然違うので(ていうか、マツタケはともかく鶏と栗の組合せって赤ワイン煮込みならわかるけど、マレンゴ風じゃないよねえ?)、雰囲気だけ。「青春」という調味料はスーパーで調達できなかったので、森田家戦後バージョンです。どうです、本当にマツタケ入りでしょ? すみません、勇気がなくて生トマトでも作っちゃいました。マツタケがもったいなくて。


moritakesengoversion.jpg


 ところが実際に食べてみるとケチャップタイプも結構いけました。この料理、栗とタマネギでかなーり甘いので、甘酸っぱい味と合うんですね。マツタケはふんだんでも、ケチャップはほんのちょっと使うのがこつ。ちなみにフォンやスープは使いませんでした。マツタケだって別に使わずとも、シメジでもエリンギでもよさそう(泣)。

 それにしてもこの時代に鶏のマレンゴ風なんてずいぶんハイカラですが、おしゃれな海の向こうの料理を作ってみたい食べてみたいという願望は、昔も今も変わらないようです。その甲斐あって、西洋かぶれのナウい慶応ボーイにばかうけ。大阪のどっかの家庭とは大違い。

 当時のケチャップはわざわざ三越の食品部に行って買う、ちょっと贅沢な調味料だったようですが、醤油のようにかけてもなめてもおいしいというのがミソで、それが家庭に広まった秘密なのでしょう。昭和になるとかなり一般的な存在になったのは、前回のナポリタンの一件からも想像できますね。

 ちなみにカゴメは戦時中、海軍向けにカレーのルーみたいなキューブ状に固めた固形ケチャップも製造しています。流血を連想させるから液状なのを嫌った……んじゃなくて、持ち運びの便を考えてのことですね。さすが洋食党の海軍、そこまでしてケチャップを使いたかった……というわけではなくて、ビタミンが不足がちになる船上での栄養面を考えてのことでしょう。実際スライスしてご飯にのっけて賞味されていたようですし。

 これではただのケチャップのせご飯ですが、炒めればケチャップライスになりますね。これこそナポリタン同様、日本人の発明した西洋料理です! 鶏を使ったのがチキンライス、ハムを使えばハムライス。君はどっち派? なんてきいても若い人には、「はあああ? トマトリゾットの具ですかあ?」とか言われちゃうかも…。

 『にっぽん洋食物語』で知られる小菅桂子氏は、2005年7月に昭和女子大近代文化研究所から出した『チキンライスの日本史』というブックレットで、大正末に鎌倉ハムからトマト風味の具とソースが入った「ハムライスの素」が発売されて以来、ハムライスブームが起こり、その姉妹品として「チキンライスの素」も発売されて、昭和になってチキンライスがハムライスの地位にとって変わったという仮説を立てています。さては先生、ハムライス派だね。

 また明治18(1885)年のクララホイットニーの『手軽西洋料理』、同36(1903)年10月の『家庭之友』、同42年の『四季毎日 三食料理法 冬の部』に登場するチキンライスはみなトマトを使わないピラフ風で、大正3(1914)年の『家庭料理講義録』のチキンライスは味つけにキャラメル(もちろんお菓子でなくカラメルですね)を、大正7(1918)年の『海軍五等主厨厨業教科書』ではドミグラスソースを使っており、ハムライスブーム以前のチキンライスは混沌としていてまだトマト味の時代ではなかったとしています。さらに勢い余って「大正期でもまだ、料理本を見て西洋料理を作ろう、などという人はほとんどいなかった。料理本は西洋の文化の香りを読んで楽しむものだったのである」とも。おいおい、そんなこと言って大丈夫? 森田さん家は例外中の例外なの?

 ここんとこちょくちょく取り上げている『トマトが野菜になった日』には、昭和以前のトマト味のチキンライスがちゃんと紹介されています。トマトの本だからね。明治39(1906)年2月号の『月刊食道楽』にはトマト味のシチューを白いご飯にかけるタイプ。大正7(1918)年の『婦女典範実用家庭顧問』には、鶏肉の具を炒めた鍋にトマトの裏ごしとご飯を入れてパラパラになるまで火を通して作るタイプ。小菅先生は、『チキンライスの日本史』に続いて翌月には同じブックレットシリーズの2号として『トマトの日本史』も出しておりまして、この中ではちゃっかり『トマトが野菜になった日』を引用していますが、前の号を出したあとで慌てて手に入れたのか、読んではいたけど気づかなかったのか。

 ちょっと調べてみたら、赤堀吉松らの『家庭応用洋食五百種』と家田啓造の『西洋料理法 活用』は、どちらも明治40年(1907)の本なのですが、これらに出てくるチキンライスは、鶏肉の具とトマトの裏ごしとご飯で作るタイプでした。赤くてトマト味のチキンライスって明治の末からあるじゃないのさ。そもそも手軽に作れる「素」や「種」が売れるようになるには、ライスカレーの前例が示すように、その料理がある程度認知されてなきゃ始まんないと思うんですけどねえ(vol34)。チンジャオロウスって聞いて何のことだか見当もつかない人が、青椒肉絲の素を買ってみようって気にはなかなかならないよねえ。

 「チキンライス」を名乗るには鶏とご飯さえ使ってあればよいわけですから、黎明期にはかなりいろいろなタイプがあったのは事実です。ただ次第にトマト味がスタンダードとなってきて、さらに素だのケチャップだのを使った簡単バージョンが普及するようになった……というのが自然な解釈ではないでしょうか。当時の人もちゃんと、チキンライスはカレーライスとも違う日本生まれの洋風ご飯料理(そもそもご飯を使った西洋料理ってのを探すのに苦労していたのだから)である、と認識していました。日本人好みの味にするべく、試行錯誤あっての完成形なのでしょう。

 それから小菅先生がチキンライスの資料として引用している『家庭料理講義録』なんですけどね、これは通信教育のテキストで、大正3年どころか明治末から、それも毎月出されていました。そりゃあ実際に作るのは一苦労だろうけど、誰もがみんなひたすら見て楽しむだけのために延々購入したわけでもありますまい。また赤堀吉松は赤堀割烹教場(今の赤堀料理学園の前身)3代目校長だし、家田啓造は岐阜県師範学校女子部と岐阜県立高等女学校(今の岐阜大と岐阜高校の前身)の先生です。レシピを眺めるだけで作らなかったとか言うと、卒業生に怒られちゃいますよ。

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 さて、そろそろお気づきでしょうが、ここまでが壮大な前ふり。
もちろんこの後はオムライスの話ですよ(続く)。


  
  

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投稿者 webmaster : 18:27