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2013年11月08日
料理本のソムリエ [vol.61]
【 vol.61】
「素」が先か、トマト味が先か
朝ドラの「ごちそうさん」、ご覧になりました? 「あまちゃん」だってなかなかリアルタイムで見られなかった私なものでとびとびでしか見ていないのですが、完全に一本取られた心地です。地雷を避けるどころか、地雷原の中を戦車でスラローム。こりゃあどうも確信犯みたいですね。前に大河ドラマがリアルさを追求しすぎてストーリーの足をひっぱっているっていう批判がありましたが、それに学んでの演出なのかも。明治や大正の西洋料理や食事情をリアルに再現しても、大喜びするのはごく一部のマニアだけで、お茶の間受けしそうにないものねえ。でも食がテーマって堂々謳っておきながら、こんなにも時代考証がいい加減でいいのかしら……?
西洋料理店の開明軒の描かれ方や塩むすびに使った塩の種類といった重箱談義はこの際棚上げするとしても、明治生まれの子供らにフランス料理(それも牛肉の赤ワイン煮やフォワグラのフラン)をふるまう超展開には度肝を抜かれました。そんでもって先週はいよいよフォンが登場。そりゃまギッド・キュリネールだってフォンは載ってますけどね。卯野大五シェフは、平成のホテルから明治時代にタイムスリップしてきたっていうエピソードの伏線かしら?
まあ、話もまだ途中なのに小舅っぽいことは言いますまい。ためしてガッテンのような情報番組ならいざしらず、目を転じればチャングムなんていうアストロ球団クラスの事例(vol2参照)もありますし。自由奔放荒唐無稽なら、そうとわかるように徹しきってエンターテイメントとして楽しませてくださいね。当ブログ、洋食と大阪料理の話はしばらく封印しまして、「ごちそうさん」を生温かく見守っていきたいと思います。
ただ、ここんとこずっとトマト縛りで書き続けているので、このシリーズが終るまではご勘弁を。前回ケチャップの由来についてちょろっと触れましたが、それでは日本人はいつからケチャップに親しむようになったのかっていうのが気になって、もうずいぶん前にいろいろ調べちゃったもので。
ケチャップの日本への導入はウスターソースに遅れるものの、明治後半には国産化されています。『カゴメ一〇〇年史 本編』によりますと、カゴメでは明治41(1908)年には試作を始めたそうで、大正末の生産量はトマトソースの3分の1ほどだったのが、昭和5(1930)年に逆転し、14(1939)年には6倍近くにもなったそうです。業務用中心だったトマトソースに対し、保存のきくケチャップは家庭にも広がっていったため売れ行きものぼり調子だったとか。そういえば戦前は、桃屋さんもケチャップを販売してました。
そんなケチャップ、戦前の庶民にとってどんな存在だったかがわかる森田たまの一文をご紹介。『絹の随筆』(1961)の中の「トマトカチップ」です。慶応大の学生だった森田七郎と結婚したての大正半ばのお話(おお、どっかの家とちょっと似てる)。同じ「絹の随筆」という副題がついている『森田たま随筆全集第3巻』には収められておりませんのでご注意を。
<栗と松茸をふんだんに入れた、チキンアラマレンゴーをつくつてみようと思つたのは、新学期のはじまる九月であつた。久しぶりで顔をあはせる友人たちに、すこし贅沢なごちそうをしたいと思つたのであつたが、あいにくなことに、なまのトマトを切つて入れる、とあるそのトマトが、もう八百屋にはなかつた。
どうしようかしら、これはやつぱりトマトで煮ないと味が出ないんでせうねと思案してゐる私に、常連の一人が智慧をさづけてくれた。
「三越の食品部へ行くと、トマトカチップといふ壜詰を売つているけど、あれどうかしら。トマトの汁だからいいんぢやないかと思ふけど。…」
鶏と玉ねぎと栗と松茸を、トマトカチップ入りのスープで煮て、おろしぎはにちよつとセリ酒を落したこの料理は、ハイカラな慶応ボーイに大好評であつた。さうして、トマトカチップは、煮込物に入れるだけでなく、そのままなめてもおいしいし、スコッチエッグなどにかけると、一そう風味をますといふことも同時に発見した。トマトカチップはわが家にとつて、お醤油についで重宝な調味料となつた。
トマトカチップがトマトケチャップであると知つたのはいつのころか分らない…(略)…人生の半ばを病床に暮し、三十年来台所に起つたこともない。チキンアラマレンゴーはいまだにわが家の秋の料理の一つとなつてゐて、必ず九月の食卓にのぼる。みんながおいしいといふと夫は、しかし昔ママのつくつた方がもつとおいしかつたといふ。
カチップ時代のそれには、青春といふ調味料がもう一つ入つてゐたせゐであらう。>
「え? 昔おいしかったのはマツタケが入ってたからじゃあないの?」と思わずつっこんでしまいそうになったのですが、1959年に発表された文章なので、森田家では戦後もマッシュルームではなくてマツタケ入りだったのかもしれません。マツタケは昭和も30年代までは、大正時代と同じくらいの量が採れていましたから。
うーん、こうなると実際に試してみないわけにはいきません。ドラマの時代考証をくさすのならば、みずから範を示さねば。ええい、ここはひとつ大枚をはたいてマツタケを買ってやろうじゃありませんか!
ところがもう11月なので、輸入のマツタケしか出回っていませんでした。いやあ、これはしたり。丹波のマツタケをふんだんに使う気まんまんだったのに残念残念。それにしてもアメリカだのトルコだのから来たマツタケを使った場合、ブログに「松茸」って書いて大丈夫なのでしょうか? 栽培のシメジは今後はちゃんとブナシメジやヒラタケって書かないと怒られるのかなあ。
随筆には作り方が書いてあるわけではなく、量も“ふんだんに”としかわからないので、柴田書店刊『フランスふだんのおそうざい』を参考にしてみました。といっても使う材料が全然違うので(ていうか、マツタケはともかく鶏と栗の組合せって赤ワイン煮込みならわかるけど、マレンゴ風じゃないよねえ?)、雰囲気だけ。「青春」という調味料はスーパーで調達できなかったので、森田家戦後バージョンです。どうです、本当にマツタケ入りでしょ? すみません、勇気がなくて生トマトでも作っちゃいました。マツタケがもったいなくて。
ところが実際に食べてみるとケチャップタイプも結構いけました。この料理、栗とタマネギでかなーり甘いので、甘酸っぱい味と合うんですね。マツタケはふんだんでも、ケチャップはほんのちょっと使うのがこつ。ちなみにフォンやスープは使いませんでした。マツタケだって別に使わずとも、シメジでもエリンギでもよさそう(泣)。
それにしてもこの時代に鶏のマレンゴ風なんてずいぶんハイカラですが、おしゃれな海の向こうの料理を作ってみたい食べてみたいという願望は、昔も今も変わらないようです。その甲斐あって、西洋かぶれのナウい慶応ボーイにばかうけ。大阪のどっかの家庭とは大違い。
当時のケチャップはわざわざ三越の食品部に行って買う、ちょっと贅沢な調味料だったようですが、醤油のようにかけてもなめてもおいしいというのがミソで、それが家庭に広まった秘密なのでしょう。昭和になるとかなり一般的な存在になったのは、前回のナポリタンの一件からも想像できますね。
ちなみにカゴメは戦時中、海軍向けにカレーのルーみたいなキューブ状に固めた固形ケチャップも製造しています。流血を連想させるから液状なのを嫌った……んじゃなくて、持ち運びの便を考えてのことですね。さすが洋食党の海軍、そこまでしてケチャップを使いたかった……というわけではなくて、ビタミンが不足がちになる船上での栄養面を考えてのことでしょう。実際スライスしてご飯にのっけて賞味されていたようですし。
これではただのケチャップのせご飯ですが、炒めればケチャップライスになりますね。これこそナポリタン同様、日本人の発明した西洋料理です! 鶏を使ったのがチキンライス、ハムを使えばハムライス。君はどっち派? なんてきいても若い人には、「はあああ? トマトリゾットの具ですかあ?」とか言われちゃうかも…。
『にっぽん洋食物語』で知られる小菅桂子氏は、2005年7月に昭和女子大近代文化研究所から出した『チキンライスの日本史』というブックレットで、大正末に鎌倉ハムからトマト風味の具とソースが入った「ハムライスの素」が発売されて以来、ハムライスブームが起こり、その姉妹品として「チキンライスの素」も発売されて、昭和になってチキンライスがハムライスの地位にとって変わったという仮説を立てています。さては先生、ハムライス派だね。
また明治18(1885)年のクララホイットニーの『手軽西洋料理』、同36(1903)年10月の『家庭之友』、同42年の『四季毎日 三食料理法 冬の部』に登場するチキンライスはみなトマトを使わないピラフ風で、大正3(1914)年の『家庭料理講義録』のチキンライスは味つけにキャラメル(もちろんお菓子でなくカラメルですね)を、大正7(1918)年の『海軍五等主厨厨業教科書』ではドミグラスソースを使っており、ハムライスブーム以前のチキンライスは混沌としていてまだトマト味の時代ではなかったとしています。さらに勢い余って「大正期でもまだ、料理本を見て西洋料理を作ろう、などという人はほとんどいなかった。料理本は西洋の文化の香りを読んで楽しむものだったのである」とも。おいおい、そんなこと言って大丈夫? 森田さん家は例外中の例外なの?
ここんとこちょくちょく取り上げている『トマトが野菜になった日』には、昭和以前のトマト味のチキンライスがちゃんと紹介されています。トマトの本だからね。明治39(1906)年2月号の『月刊食道楽』にはトマト味のシチューを白いご飯にかけるタイプ。大正7(1918)年の『婦女典範実用家庭顧問』には、鶏肉の具を炒めた鍋にトマトの裏ごしとご飯を入れてパラパラになるまで火を通して作るタイプ。小菅先生は、『チキンライスの日本史』に続いて翌月には同じブックレットシリーズの2号として『トマトの日本史』も出しておりまして、この中ではちゃっかり『トマトが野菜になった日』を引用していますが、前の号を出したあとで慌てて手に入れたのか、読んではいたけど気づかなかったのか。
ちょっと調べてみたら、赤堀吉松らの『家庭応用洋食五百種』と家田啓造の『西洋料理法 活用』は、どちらも明治40年(1907)の本なのですが、これらに出てくるチキンライスは、鶏肉の具とトマトの裏ごしとご飯で作るタイプでした。赤くてトマト味のチキンライスって明治の末からあるじゃないのさ。そもそも手軽に作れる「素」や「種」が売れるようになるには、ライスカレーの前例が示すように、その料理がある程度認知されてなきゃ始まんないと思うんですけどねえ(vol34)。チンジャオロウスって聞いて何のことだか見当もつかない人が、青椒肉絲の素を買ってみようって気にはなかなかならないよねえ。
「チキンライス」を名乗るには鶏とご飯さえ使ってあればよいわけですから、黎明期にはかなりいろいろなタイプがあったのは事実です。ただ次第にトマト味がスタンダードとなってきて、さらに素だのケチャップだのを使った簡単バージョンが普及するようになった……というのが自然な解釈ではないでしょうか。当時の人もちゃんと、チキンライスはカレーライスとも違う日本生まれの洋風ご飯料理(そもそもご飯を使った西洋料理ってのを探すのに苦労していたのだから)である、と認識していました。日本人好みの味にするべく、試行錯誤あっての完成形なのでしょう。
それから小菅先生がチキンライスの資料として引用している『家庭料理講義録』なんですけどね、これは通信教育のテキストで、大正3年どころか明治末から、それも毎月出されていました。そりゃあ実際に作るのは一苦労だろうけど、誰もがみんなひたすら見て楽しむだけのために延々購入したわけでもありますまい。また赤堀吉松は赤堀割烹教場(今の赤堀料理学園の前身)3代目校長だし、家田啓造は岐阜県師範学校女子部と岐阜県立高等女学校(今の岐阜大と岐阜高校の前身)の先生です。レシピを眺めるだけで作らなかったとか言うと、卒業生に怒られちゃいますよ。
さて、そろそろお気づきでしょうが、ここまでが壮大な前ふり。
もちろんこの後はオムライスの話ですよ(続く)。
投稿者 webmaster : 2013年11月08日 18:27