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2015年03月26日
料理本のソムリエ [vol.67]
【 vol.67】
横杵(横槌じゃないよ)は、
どこでいつから使われるようになったのか
話が横にそれすぎました。横槌じゃなくて横杵のほうに戻しましょう。
前回は江戸時代の話になっちゃいましたが、そもそも杵も臼も、古代から日本にある歴史の古い道具です。なにせ国宝の銅鐸の文様に登場するくらいだもの。これは杵臼のほかにも亀や狩りのシーンなどが描かれてまして、旧所蔵者の名前をとって「大橋銅鐸」なんて呼ばれているユニークな銅鐸ですが、この世でひとつきりなのではなく、同じような文様のものが神戸からも出土しています。ほれ、教科書なんかで見たでしょ? 覚えてない?
わざわざブログ用に写真を借りるのもねえ……と思っていたら、上野の国立博物館のミュージアムショップでこの銅鐸にちなんだ商品を発見! 海洋堂製のフィギアがガチャガチャの丸いケース入りで売られていました。ただしそこはガチャガチャですから、銅鐸以外にも埴輪や土偶など計6種ありまして、中身は開けてみないとわからない。コンプリートはなかなか大変そう。考古学マニアの琴線をくすぐる商品であります。穴の開いた透明な箱に詰められてまして、つかみ取りで自由に選ぶスタイルで売られていたのですが、もういっそ、丸ケースごと砂の中に埋めて発掘する趣向にすればいいのに。
さらにそのものずばり、国宝の銅鐸に描かれた各種線画のハンコが売られていましたよ。特別展の「みちのくの仏像」でも仏様のハンコがいくつも売られていたけど、昔はこんなお土産なかったよなあ。近ごろの自作スタンプブームにあやかっているのかしら。
教科書なんかとはとっくの昔におさらばして記憶があやふやな方たち、こちらをご覧ください。思い出しました? 銅鐸の文様に描かれているのはこの通り、竪杵です。もっともこれはもちを搗いているわけではなくて、脱穀・精米のシーンと思われます。
いっぽう横杵はと言いますと、これは意外に歴史が新しく、江戸時代に普及したと言われています。それというのも、銅鐸から始まって中世の絵巻物など、絵画資料に登場するのは、どれもこれも竪杵ばかり。
民俗学者の宮本常一は『絵巻物に見る日本庶民生活誌』で、「直幹申文絵詞」や「福富草紙」といった、二人組の女性が竪杵を片手に持って臼を搗いている資料を紹介しております。そして「・・・杵も竪杵が幕末のころまでは多かったようだが、そのころ(注・菅江真澄が「百臼の図」を記した文化五年=1808年)から横杵も行なわれてくる。「百臼の図」によると、秋田土崎・江戸のものなどがあげられており、重さは六貫五、六百目から十四、五貫に及んだ。このような重さでは片手で搗くことはできない。両手で柄を持って搗く。そしてこの作業は主として男が行なうようになる」と述べています。
これは柳田国男が名作『木綿以前の事』において、「女性が日本の手杵で穀粉をはたいている間は、いかに糯米が糊分の多い穀物であろうとも、是を搗きつぶして今のような餅にすることはできない。それが可能になったのは横杵の発明または輸入で、男子がこれを取扱うようになった結果である。横杵の使用は多分支那から入ってきた技術であろう。男の力でないと取扱えぬかわりに、餅も米の精白もこのために手早くなった」
と述べているのを受けたのかもしれません。えええ、竪杵では完全な餅は搗けないの? それじゃあすりこぎレベルではなおのこと…。もっとも柳田国男は「すりこぎ」の「こぎ」は小杵(こぎね)からきていると述べておりました。すりこぎはああ見えて杵のお仲間なんですねえ。
ところで、彼は横杵は中国起源と推測しておりますが、もちを搗く文化って、中国にあるのでしょうか? 中国でも月の模様をウサギの姿に見立てておりますが、竪杵で搗いているのはもちではなくて仙薬なんだそうですが……。
もち米が粘るのは、そのでんぷんの中にアミロースをほとんど含まないからで、突然変異として生まれたもの。こうしたもち性穀物はアワやキビ、トウモロコシなどにも見られます。これら“もちもち穀物”を好んでわざわざ栽培するのは、東南アジアから中国南部、さらに日本へと広がる照葉樹林文化圏の特徴です。
もっとももち米の食べ方も、おこわだの粽だのいろいろありますよね。民族学者の佐々木高明先生によりますと、ぺったんぺったん搗いたもちを食べる地域は照葉樹林文化圏のなかでもさらに限られているとか。「せいぜい中国の雲南から揚子江流域一帯、一部は朝鮮半島にも分布していますが、それだけですね」と『民具が語る日本文化』の対談でコメントされておりました。ただし同じページに載っております国立民族学博物館蔵の杵の写真、どう見ても横杵なんですが、「竪杵」ってキャプションがついてましたよ……。編集者もやっぱりこんがらがるよねえ。
民博所蔵の杵は中国の少数民族である苗(ミャオ)族が使っていたもので、一緒に写っている臼は、バスタブみたいな横長の形。日本ではこのタイプの臼は応神天皇が酒を仕込むのに使ったとされていまして、「横臼(よくす・よこうす)」といいます。ちなみにもち搗きに使うほうは「立臼(たちうす)」ね。
『西南中国の少数民族』によりますと(ただしこの本は、雲南じゃなくて隣の貴州省で暮らす苗族の研究書なんですが)、旧暦の九月九日、苗族のお祭りの日である十月から十一月にかけての卯の日、春節と、一年のうち3回もちを搗くんだそうです。臼が横長なのは、両側から交互に搗くからだとか。
これまた写真を借りるのもねえ……と思っていろいろ探したらNHKの学習用動画がありました。これまたすばらしい。百聞は一見に、静止画像は動画にしかずですよ。
http://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005402644_00000&p=box
なんか見慣れた作業風景のような、そうでないような……。苗族と日本人、共通の文化的基盤を持つというのが照葉樹林文化論なんですが、もち搗きだけは微妙にスタイルがずれていますね。おまけに横杵だけずいぶん遅れて日本に伝播したってのもなんだか変。いったいいつ、どこからどうして伝来したのかしら?
そもそも佐々木先生は『照葉樹林文化の道』では1979年に聞いた話として、「…湖南山地に住むヤオ族、ミャオ族、トン族などの間ではモチ種のイネの栽培が盛んで、モチ米は甑で蒸してオコワをつくるほか、それを臼と杵を用いて“ペッタラコ”と搗いて円いモチをつくるということであった。しかも、その杵はいまはタテギネを用いているが、三〇年ほど前までは日本のモチツキギネとそっくりのヨコギネを使っていたというのである」と報告しておりまして、これじゃあますますわけがわからない。横杵から竪杵へと逆行しています。
のちに『日本文化の多重構造』では「つまり、横杵を用いて「搗きモチ」をつくる慣行は、照葉樹林帯に広く分布するモチ文化圏の中でも、きわめて限定された地域にみられるものなのである。日本式の「搗きモチ」に象徴される文化のルーツは、この限定された地域に求めることができそうだが、くわしくは将来の研究を待たねばならない」と結論を留保しています。どうも横杵は照葉樹林文化論にとって鬼門みたい。
ようし、それなら考古学の世界ではどうなっているのでしょう。銅鐸の絵はさておいて、杵そのものは出土しているのかな?
以前はと言いますと、横杵は戦国時代の都市遺跡、草戸千軒の井戸からの出土品くらいしか知られておらず、江戸時代に普及したという説を補強していました。しかし最近の報告書を見ると、竪杵の数に比べるとごくわずかではあるものの、弥生時代や古墳時代の横杵の出土例もあるようです。
『木の考古学 出土木製品用材データベース』は、縄文時代から江戸時代まで、日本各地で出土する木製品にどんな樹種が使われているかを整理した労作でして、出土品が器種別に細かく整理されており、CD-ROMつきで検索ができます。ためしに「横杵」を検索してみたら、ちょっと江戸時代のものも混じっておりましたが、41点がヒットしました。一方竪杵はと言うと665点で10倍以上。ちなみに例の横槌は826点でして、さらに圧倒しておりますが、それでも横杵もまったく出土していないわけではないんですね。
たとえば今世紀になって発掘され、4年前には1000点あまりの出土品が重要文化財に指定された石川県の八日市地方遺跡からは、トネリコ製とツバキ製の2点の弥生時代の横杵が出土しています。さらに竪杵も3点出土しているのですが、こっちのほうが横杵よりも造りがていねいで格上な感じです。
この遺跡の出土品は小松市のHPに動画で紹介されています。といっても、HPに写真も貼られているのですけれどね。
竪杵は7分10秒あたりに登場。残念ながら横杵はありません。考古学の雑誌で写真を見つけたのですが、柄の折れた横杵でして、みんなが杵と聞いてイメージするごく普通の形のもの。これじゃあありきたりで面白くないと判断されて、動画では割愛されたんですかねえ。こっちのほうが珍しいのに……。
さてさて、横杵が江戸時代以前から日本でも使われていることがわかりまして、がぜん照葉樹林チームが元気づいてきましたよ。メジャーな道具ではなかったので絵画資料に描かれなかったんじゃないかしら? ただし、形がおんなじだからといって、昔からもち搗きに使っていたとは限りませんよねえ。案外でっかい銅鐸を叩いて鳴らすのに使ってたりしてね。そこが考古学のつらいところ。
先に紹介した『民具が語る日本文化』は、いろんな学者さんの論考や座談会のアンソロジー本でして、この中の「ヨコヅチをめぐって 考古資料と民具」で渡辺誠氏は、考古学者は横槌をなんでもかんでも「砧」としてしまうことを批判していました。渡辺氏によると横槌は形によって7種類に分かれるそうで、なるほどバットみたいなタイプもあるようです。そして、それぞれ用途が異なり、ワラを細工するために叩いて柔かくする作業のほか、豆を叩いてさやから落としたり綿を叩いて柔らかくしたり。紙の原料のコウゾや漉き直す古紙をとんとん叩いて柔らかくする(vol65参照)のにも使うんだそうで。確かに江戸時代の川柳には、浅草の漉き返しの作業を詠んだ「寝ぬ里へひびく山谷の紙砧」なんてのがありました。布を叩く以外にもいろいろなことに使うから、横槌がやたらにたくさん出土するんだねえ。
それじゃあ竪杵のほうはと言いますと、こちらは考古学と民族学を両睨みにした学者、八幡一郎の調査があります。昭和24(1949年)、すたれつつあった竪杵について、どんなものが使われているかアンケート取材を行なっておりまして、八幡先生は竪杵の形を6種類に分類しております。
1200通あまりのアンケートのうち、どれくらい返ってきたのかわかりませんが、126例が報告されておりまして、それによると、当時すでに近畿地方や関東地方では、竪杵はほとんど使われていませんでした。そんでもってその用途ですが、味噌搗という回答が圧倒的に多く、さらにかまぼこだのコンニャク作りだの、昆布を粉にするだの意外な回答があるわ、あるわ。
こうしてみると重いばかりで小回りの利かない横杵のほうは、道具としての用途が広くないような気がします。もち搗き以外には、大量の脱穀・精白くらいしか使い道が思いつきません。それが出土資料や絵画資料の少なさにつながるのかもしれません。
なお横杵を使って精白するには、臼でもち搗きの要領で搗いてもよいのですが、唐臼というさらに進化した道具を用います。踏み臼ともいいまして、シーソーの端に横杵がくくりつけられているようなものを想像してください。これを踏むと杵が持ち上がり、はなすと自重で下りて臼の中に振り下ろされます。らくちんらくちん。
それじゃあもちを搗くのだって、唐臼を使えばいいじゃない。正月食べるめでたい食べ物だから、搗き手と返し手の二人が呼吸を合わせて心をこめて搗かなきゃいけない伝統だったのでしょうか……、と思ったら、実際に唐臼でもちをついている事例がありました。
小社の『食生活の構造』には、昭和50(1975)年の年末年始に潮田鉄雄氏が聞き歩いた広島の民俗調査が収録されているのですが、そこにこんな証言が。
「…小人数の家族ではキノ(横杵)で餅を搗くこともあるが、これは歴史が新しく、君田村では大正時代から出現した。杵より踏臼のほうが餅の伸びがよく、ヤネッこく(大変で)ない」「臼で搗く餅は、二た臼か三臼と少ない時や、近年家族数が少なくなった若い家庭で用いている」
臼みっつ分で少ないなんて……。それに昭和50年代は若い家庭も、ちゃんと家でもちを搗いていたんですねえ。日本人の米の消費量が減るわけだよねえ。
となると先の湖南山地のミャオ族も家族が少なくなって、横杵から竪杵へ戻ったのかしら。少数民族には一人っ子政策は適応されないはずだけど……。それとも文化大革命のせいかしら。
投稿者 webmaster : 17:41