そばうどん知恵袋111
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﹇170611)のところに、甲州の天目山(山梨主な参考資料・『蕎麦の世界』(新島繁「そば屋の変遷」)『風俗文選(もんぜん)』(宝永3年宿(塩尻市)より出て、あまねく国々『毛吹草』(けふきぐさ)は、信濃国のゟ(より)始ルト云(いふ)」と注して「千淡内」は、徳利一ツ、ソハフクロ一﹈)に収録する雲鈴作「蕎麦切ノ頌(しょう)」の書き出しに「蕎麦切といっぱ(いうのは)もと信濃国本山にもてはやされける」とある。また、国学者の天野信景(さだかげ)が書いた雑録『塩尻』の宝永年間(1704〜県東山梨郡大和村にある臨済宗棲雲寺の山号)から始まったとの記述がある。ところが、正保2年(1645)版名物としてそば切りを挙げて「当国いる。こうして見ると信濃説に分があるが、伝聞の域を出ず確証はない。ツを寄進した千村淡路守の夫人を意味する。104頁の項目48参照。❸「蕎麦きり」の製法の初見❷千淡内1596164316151574かかわらず、「蕎麦切」の用語が出てこない。 現在のところ、そば切りという表記の初見は、長野県木曽郡大桑村にある古刹・定じょう勝しょう寺じで発見された『定勝寺文書』。戦国時代の天正2年(に行われた仏殿の修復工事の際に「ソハキリ」が振る舞われたとの記述がある。工事への祝儀や寄進の品・寄進者名が記された中に、  徳利一ツ、ソハフクロ一ツの記述があり、金永、あるいは金永と略された名前の人がそば切りを振る舞ったことがわかる。「ソハフクロ」はそば粉1袋と解釈されている。 江戸での初見は、慶長年間(慈性は近江多賀神社の社僧で、同日記の冒頭に近い慶長19年2月3日に、「一、常明寺へ、薬樹・東光ニもマチノ風呂へ入らんとの事にて行いき候へ共、人多く候てもどり候。ソバキリ振舞被まうる申さ候」。江戸の薬樹院、東光院の仲間と一緒に町の銭湯に出かけたが混んでいたので常明寺に帰り、そば切りをごちそうになったとの意だが、その書きぶりから格別珍しがっているとも見えず、慶長年間にはすでにそば切りがある程度知られるようになっていたと推定できる。寛永20年(物語』後段の部には、「蕎麦きり」の製法の初見がある。❸❷)~ 千淡内 振舞 ソハキリ)の文献『慈じ性しょう日記』である。)板のわが国初めての料理専門書『料理 金永11

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