新版 そば打ち教本
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現在のところ、そば切りの初見は長野県木曽郡の定じ勝し寺じで発見された記録(『定勝寺文書』)だ。戦国時代の天正2年(₁₅₇₄)、同寺で行われた工事の際に、寄進されたそば切りが振る舞われたと書かれている。従来、そば切りに関するもっとも古い記録は江戸時代初期、近江の社僧慈じ性しの日記(『慈性日記』)の慶長19年(₁₆₁₄)の記述とされていたから、40年遡ったわけである。わが国でのソバ栽培は5世紀には始まっていたといわれる。養老6年(₇₂₂)には、有名な元げ正し天皇の詔(大旱か魃ばに際して麦とソバの栽培を奨励した)が出されている(『続し日に本ほ紀ぎ』)。 ところがその後、そばは長く歴史の表舞台から姿を消してしまう。わが国最初の麺は奈良時代初期から文献に登場する麦む縄な(索さい餅)であり、小麦粉で作る手延べ麺である。南北朝時代から室町時代にかけて、ょうょうょうょうくべ わぎんうんんんつ    ょく小麦の手延べ麺は現在のそうめんに近い索麺(素麺)へと進化する。延ばした生地を切って作ったと考えられる切麺(ひやむぎ)や饂飩(うどん)も現れているが、どういうわけか、そば粉で麺を作ったという記録は見当たらない。たとえば、室町時代の史料にも「そば」という言葉は出てくる。しかし、当時の「そば」が、そば粉、そば粒、そばがき、そば麺のどれを指していたのかという裏づけがないのである。文献上、そば粉を麺に加工したと認められるのは「そば切り」という表記があった場合であり、その初見が『定勝寺文書』ということだ。結局、そば切りの起源は、いまだ確定されていないというしかないわけである。なお、元正天皇の詔では「蕎麦」の字が当てられているが、当時はソバではなくソバムギと読んだ。延喜18年(₉₁₈)成立の『本ほ草ぞ和わ名み』では、ソバの和名として「曽波牟岐」の字を当ててソバムギと訓読している。そのほかソバには、クロムギ、ソマムギの異名もあった。ソバょう長野県木曽郡大桑村須原にある古刹。この寺に伝わる文書の中に、そば切りが振る舞われたとの記録がある。『信濃史料』第14巻に収録。知識篇●定勝寺蕎麦研究家そば切りの起源第6章岩﨑信也そば切りの歴史とそば文化124

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