新版 そば打ち教本
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( )変わりそばの歴史は古く、そば切りが普及し始めた頃とほぼ同時に始まっている。( )江戸時代後期には、すでに現在と同等の白い御膳そば粉が製粉され、変わりそばの流行に寄与した。( )文献で確認できる範囲では、卵の黄身のみを使った卵切りが最初の変わりそばのようである。( )伝統的な変わりそばは50種類にも及ぶとされているが、これらが隆盛を迎えたのは、19世紀前半のようである。( )変わりそばを打つ際、湯ごねの技法を使うのは、少ないたんぱく分でそばをつなぐ力として使うためである。(1)(2)(3)(4)(5)【3】 【4】 【5】 【6】 そば料理名梁越まんじゅう【7】 変わりそばについての次の記述のうち、(  )内に正しいものには〇を、間違っているものには×をつけなさい。次の(  )内を埋めて、文書を完成しなさい。  料理指南の山家集は山村での料理を記したものだが、その中にそばのつけ汁とする搾り汁の作り方が出ている。そばに限ると断った上で、熱い灰の中に入れておいた(  )をおろして布ごしし、(  )を少しすって混ぜ、さらに(  )して使うというものだ。この汁の作り方は、現在木曽地方で受け継がれており、あまりの辛さから(  )とも(  )とも呼ばれる。上伊那では、同様な食べ方を(  )と呼ぶ。信州では(  )という食べ方も伝えられているが、これは(  )の搾り汁に焼き味噌、(  )、刻みネギ等を加えて(  )をととのえたものだ。江戸時代に製麺機はない。最初に開発されたのは明治(  )年だが、普及するのは大正になってからのことだ。製麺機がなく、手打ちしか方法がなかった時代に(  )が強調されているのは、(  )を商っているかどうかという問題だからである。守貞謾稿のいう(  )は文脈から読むと、小麦粉でつないだ二八そばではなく、そば、つまり(  )のそばということになる。ただ蕎麦全書によると、当時すでに製粉の仕方によるそば粉自体の優劣も問題視されていた。するとこれは生粉打ちというだけでなく、(  )を使用したそばという意味合いも込められていた可能性もある。それはそれとして、江戸時代中期から手打ちあるいは(  )、(  )という言葉が、(  )のそばという意味でキャッチフレーズ的に使われていたのが、幕末頃にはかなりいい加減に使われていたらしい。現在も(  )にこの用語を用いる店が多いのは、この時代の名残りである。江戸時代初期のそば打ちは生粉打ちでしたが、小麦粉をつなぎとして使ってそば打ちをするようになったのはいつ頃からか? また、小麦粉をつなぎに使うようになった理由について記述しなさい。  下は、そば切り以前に日本各地で食べられていた蕎麦料理といわれているが、どこの地域で食されていて、どのように食べられていたか簡記しなさい。  食されていた地域そばかっけうちわ餅柳はっとそばすべし次は、江戸時代のそばに関する記述であるが、正しいものに〇、正しくないものに×を( )内に記しなさい。 でなくいろいろな種物が豊富であったからだといわれている。どのように食べられていたか(1)(2)(1)(2)(3)(4)(5)( )江戸時代の初期から中期にかけては、そばよりうどんの方が人気が高かった。( ) 「二八そば」という名称については色々な考証があるが、その始まりは「守貞謾稿」とする説が有力である。( )そば切り、うどんを商う夜売りは、江戸よりも京都の方が早かったといわれている。( ) 江戸時代 夜そば売りが「夜鷹そば」といわれて市民に人気が高くよく食べられていたようであるが、それは売り物がぶっかけだけ( )鰹節のだしに濃口醤油、砂糖、味醂という江戸のそばつゆは、元禄時代に完成され市中のそば屋に定着したといわれている。075

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