Pâtissier
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次の地はスイス。ジュネーヴ近郊す。じつは僕が個人のお菓子屋さて、次第に影響を受けていったこに旅発つ前には「ピラミッド」「ポふり返れば、料理に近い場所にいたことで、街場のお菓子屋さんとは違う発想で、味の組合せも考えるようになったのだと思いまんで修業したのは、この世界に入ってからずっとあとのこと。渡欧してからも、初期のころはレストランで菓子をつくっていました。フランスへ行こうと思いはじめたのは20才くらいの時です。僕が働いていたホテルではフランス修業から帰ってきた先輩たちもいともありました。25歳でフランスール・ボキューズ」「アラン・シャペル」など、三つ星レストランの名前を片っ端から暗記しました。自分の部屋の天井にはパリのメトロリへの思いを高めていたことを思たのはアルザス地方で、レストランやホテルで働きました。当初はめなかった。シェフにはとてもよくしてもらいましたが、現地の文化や生活になれるのに必死でしないと思っていました。のコペという町にあるホテル・デ「ラ・ペルル・デュ・ラック」に移りました。ヨーロッパに行って感じたことがあります。日本のホテルで子の職人の地位はいちばん下でしスイスのレストランでは上下はありませんでした。ウェリントンという料理がスペシャリテの1つで、夜は80席のテーブルが埋まります。その時のシェフに「おまえがつくるデザートがダメだったら、それまで丹精込めてつくった料理も、すべてがゼロの地図を貼って路線をたどり、パい出します。言葉になれるのが大変で、菓子を勉強しに行ったのにルセットが読た。行ったら何かつかむまで帰れュ・ラックのレストランでした。半年後にはジュネーヴのレストランは料理長をトップにピラミッド形に地位が決まっていて、パンや菓た。でも、ヨーロッパでは違って、イ生地でヒレ肉を包んだブッフ・渡仏して最初の修業の地となっラ・ペルル・デュ・ラックは、パ仕事なんだ、と考え方を新たにした瞬間でした。と一緒に出すミニャルディーズ(小菓子)をたくさんつくって密かに冷蔵庫の奥に隠し入れたことがあた。シャーベットもディナーのサーた。もっともおいしい最良のタイの〝鮮度〟を重視することにつながた。強いとろみがあるものが僕の前面に打ち出されたものでした。と気づかされました。になる」と言われたことを今でもよく覚えています。デザートも料理と同等、菓子づくりも責任あるある日のこと、食後の飲みものりました。効率を考えてランチとディナーのぶんをまとめてつくったのです。しかし、これがシェフに見つかってしまい、全部捨てられてしまいました。なぜ捨てたのか聞くと、ディナーで提供するものはすべて夜つくれ、と怒られましビスがはじまってからマシンをまわしはじめなくてはいけなかっミングで提供することの大切さを学び、ここでの経験が、僕が菓子っていきます。また、コペのホテル・デュ・ラックでは、近くの自家農園で旬のフルーツを摘んできては朝食用にコンフィチュールをつくっていましなかのコンフィチュールでしたが、ここでつくっていたものは、シャバシャバで粘度はなく、果実感がペクチンは入れなくていいんだ、87若いころには料理本もよく読んだ。オーギュスト・エスコフィエ著『ル・ギード・キュリネール』、料理事典『レペルトワール』も。今では貴重なものばかり。夏でもゼリーは置かない。定番ではなく、季節を生かした菓子で勝負する。おいしさ優先でゼラチンの量は控え、半数は持ち帰り不可。季節の生菓子約30品、旬のフルーツのコンフィチュール15〜20品、焼き菓子20〜25品のほか、コンポートなどもラインアップする。
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